1947年7月31日生まれ。山梨県出身。高校時代に、新しく竣工したばかりの極真会館へ入門、山梨県から東京・池袋の総本部まで片道4時間をかけて通い続ける。1967年、入門2年半で黒帯允許。1969年、当時のキックボクシング・ブームから開始されたNET(現・テレビ朝日)系列の「ワールドキックボクシング」へ極真会館から参戦する形でキックボクシング・デビュー、看板選手として活躍する。また、在学中の日本大学農獣医学部キャンパスにおいてキックボクシング部を立ち上げ、関東の大学数校からなる全日本学生キックボクシング連盟結成に関わる。
同年9月に初の直接打撃制オープントーナメントとして極真会館が主催した全日本大会へ出場、初代全日本王者となる。同全日本大会では第2回大会準優勝、第4回大会第4位、第5回大会準優勝の成績を残すが、特に第5回大会決勝の盧山初雄戦は極真史上最高の名勝負として語り継がれている。また、ライバルとしてはを競い、朋友でもあった添野義二とともに「極真の龍虎」の異名で知られる。
第5回全日本への出場を最後に選手としては引退し、中日スポーツ・東京中日スポーツにて格闘技を主としたジャーナリストとして活躍する一方、あくまでボランティアとして空手の指導を続け、1995年、それまでの風林火山からNPO団体逆真会館を正式に立ち上げる。なお、その間、全日本女子プロレスに臨時コーチとして招かれ、当時全盛のクラッシュギャルズなどを指導している。
2025年6月22日、胆管癌にて急逝。享年77。現役時代には師である大山倍達が示した、円を土台とした空手理論を実際の試合で体現する唯一の空手家として「天才」の異名で呼ばれ、多くの後進へ影響を与えた、まさにレジェンドと呼ぶにふさわしい不世出の空手家であった。