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中山博道Nakayama Hakudo
剣道

18721958

 明治5年、現在の石川県金沢市で旧加賀藩士の家に生まれるも、明治維新の混乱から一家をあげて富山県富山市へ移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出されたが、働きながら剣術(山口一刀流)や柔術(不詳)を学んだという。18歳で上京し、東京府(当時)神田西小川町にあった神道無念流の根岸信五郎の有信館道場へ入門する。23歳で順免許、27歳で免許を許され、28歳の時に師範代となって、明治35年(1902)、免許皆伝を得て根岸の養子となる(のち、中山家に復する)。その後、本郷真砂町に道場を建設、神道無念流・有信館を継承した。明治45年には全国で25名という剣道形制定委員の一人に選ばれ、師であり主査委員であった根岸と共に大日本帝國剣道形の制定に尽力する。昭和初期の剣道界において中西派一刀流の高野佐三郎と並び称される権威者として「昭和の剣聖」と呼ばれる。

 剣道のほか、神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学び、居合、杖道の普及にも尽力した。そのため、戦前の大日本武徳会から前人未到の剣道・居合・杖道の三範士号を授与される。

 戦後、戦犯容疑者として一時収監され、その後、無罪釈放されたものの武道界からは距離を取り、剣道団体の名誉職に就くにとどまる。なお、昭和32年(1957)に全日本剣道連盟から初の「剣道十段」授与を打診されたが、これを辞退。高野佐三郎と共に、現代剣道に強い影響力を残しながらも、一方で、武道としてのこだわりが強く、剣道のスポーツ的な発展には批判的であったという。

 昭和33年に死去、享年86。青山斎場にて全日本剣道連盟の木村篤太郎会長が葬儀委員長を務め「日本剣道葬」が営まれた。戒名:大雄院殿無双博道大居士。

18721958

 明治5年、現在の石川県金沢市で旧加賀藩士の家に生まれるも、明治維新の混乱から一家をあげて富山県富山市へ移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出されたが、働きながら剣術(山口一刀流)や柔術(不詳)を学んだという。18歳で上京し、東京府(当時)神田西小川町にあった神道無念流の根岸信五郎の有信館道場へ入門する。23歳で順免許、27歳で免許を許され、28歳の時に師範代となって、明治35年(1902)、免許皆伝を得て根岸の養子となる(のち、中山家に復する)。その後、本郷真砂町に道場を建設、神道無念流・有信館を継承した。明治45年には全国で25名という剣道形制定委員の一人に選ばれ、師であり主査委員であった根岸と共に大日本帝國剣道形の制定に尽力する。昭和初期の剣道界において中西派一刀流の高野佐三郎と並び称される権威者として「昭和の剣聖」と呼ばれる。

 剣道のほか、神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学び、居合、杖道の普及にも尽力した。そのため、戦前の大日本武徳会から前人未到の剣道・居合・杖道の三範士号を授与される。

 戦後、戦犯容疑者として一時収監され、その後、無罪釈放されたものの武道界からは距離を取り、剣道団体の名誉職に就くにとどまる。なお、昭和32年(1957)に全日本剣道連盟から初の「剣道十段」授与を打診されたが、これを辞退。高野佐三郎と共に、現代剣道に強い影響力を残しながらも、一方で、武道としてのこだわりが強く、剣道のスポーツ的な発展には批判的であったという。

 昭和33年に死去、享年86。青山斎場にて全日本剣道連盟の木村篤太郎会長が葬儀委員長を務め「日本剣道葬」が営まれた。戒名:大雄院殿無双博道大居士。

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