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森良之祐 Mori Ryounosuke
士道日本拳法協会

1926〜2007

大正15年1月15日、徳島県に生まれた森良之祐は県立徳島商業学校(現・徳島商業高校)へ入学後、剣道に打ち込む(この剣道の経験が、晩年の「剣拳一如」の模索へつながったのかもしれない)。そんな森少年が昭和18年(1943)、関西大学入学とともに、日本拳法部へ入門した。徳島商業時代には喧嘩に明け暮れていたという森は、「喧嘩をすれば即退部」の条件で入部が許されたという。

当時、日本拳法を創始した澤山宗海(本名:勝)は昭和7年に大日本拳法会(のち、日本拳法会)を発足後、戦争へ出征しており、森は先輩部員たちの指導を受けていたが、やがて学徒出陣で部の主将が出征すると、後を任された森はその責任を重く受け止め、当時の日本拳法を後援していた洪火会へ入門。その本部道場で腕を磨いた。洪火会は大正末期に設立された武道修養団体で、創始者の黒山高麿は武道専門学校4期生にして、当時の大阪府警本部柔道師範を務めた猛者。洪火会は黒山の元、柔道を主軸としていたが、澤山の拳法部があり、昇段審査はここで行われていた。澤山と共に、黒山を第二の師と仰いだ森は、洪火会で初段の允許を受けると共に、黒山の使用していた黒帯を贈られている。

昭和20年、香川県の陸軍部隊へ配属された森だったが間もなく終戦、徳島へ戻った翌年、神戸経済大学(現・神戸大学)へ改めて入学すると、澤山の復員の知らせを受け、拳法修行も再開させる。この頃、曽根崎警察署の柔道場で見取り稽古をした澤山と先輩、山脇智による防具練習が、森にとって防具練習の模範となったという。

昭和22年、再び徳島へ帰郷した森は、生涯唯一のサラリーマン生活を送るが(昭和23年7月退社して拳法普及に専念)、地元の若者たちへ拳法を教えるため、道場「血誠館」を開設する(のち、「大滝山道場」と改称)。サラリーマン生活を終えた昭和23年には、大阪へ出て澤山の指導する関西大学や関西学院大学の拳法部でさらに稽古を積んだ。約一年間の修行で一区切りをつけた森は徳島で本格的に指導に専念。昭和26年、五段を允許された森に「指導させれば森」という評価が高まった頃、昭和28年、森は澤山の命に従い、日本拳法普及のため東京へと進出する。上京後、当地の様々な武道家、格闘技関係者と交流する中で、着々とその地盤固めを進めていった森だったが、秋頃、徳島へ一時帰郷していた森へ澤山から「東京での活動の中止」が伝えられた。順調に活動が展開されていただけに俄かには承服できない森は澤山へ直談判するが結論が出ないまま年を越える。その年の5月には六段を授かるも、7月に日本拳法会の幹部会により森の除名が決定。師弟間の骨肉の争いを避けるため、身を引くしかなかった森だったが、紆余曲折の末、仲介者の協力もあり、日本拳法会とは別に宗家直結の団体を作ることとなり、昭和30年5月12日、森は「日本拳法協会」を設立、東京を拠点に新たに活動を開始することとなる。

既に昭和28年の段階で、国家警察本部より関東管区警察学校で日本拳法の講習の依頼を受けているが、昭和33年、自衛隊からの要請を受け、自衛隊における「徒手格闘術」の教範作成に参画することとなる。これには柔道家であり、合気道の競技化をも果たした富木謙治なども協力して、ここに新たな「自衛隊徒手格闘技」が創案された。また、同じ頃、森は警察大学校逮捕術研究科の講師も務めており、警察の逮捕術には日本拳法が大きく影響している。昭和39年には中野に125坪の大道場を設立するが、やがて後援者の不況とともに、道場も縮小移転。平成3年(1991)に芝公園内の東京タワーの目前に本部道場を構えるが、平成11年の日本拳法協会分裂に伴い、同道場は閉鎖。最晩年は「士道日本拳法協会」を名乗り、活動を続けるが、平成19年2月10日、指導先にて突然倒れ、翌11日午後1時20分、前々年に摘出した肝臓ガンの再発による急性ショックで、帰らぬ人となった。享年81。戒名:拳哲院法城覚全居士。

日本拳法における数々の形を創出し、他武道や格闘技からも注目された“日拳ストレート”を編み出し、晩年には独自の六甲剣(木剣)や亀甲拳(鍛練具兼武器として製作された六角形の一握りほどの鉄塊)などによる錬法を創案するなど、まさに一徹の拳法人生を貫いた一生を全うされた武人だった。

(参考:「秘伝」2007年8月号「追悼——日本拳法協会創設者 森良之祐師範 一徹の拳法人生」)

1926〜2007

大正15年1月15日、徳島県に生まれた森良之祐は県立徳島商業学校(現・徳島商業高校)へ入学後、剣道に打ち込む(この剣道の経験が、晩年の「剣拳一如」の模索へつながったのかもしれない)。そんな森少年が昭和18年(1943)、関西大学入学とともに、日本拳法部へ入門した。徳島商業時代には喧嘩に明け暮れていたという森は、「喧嘩をすれば即退部」の条件で入部が許されたという。

当時、日本拳法を創始した澤山宗海(本名:勝)は昭和7年に大日本拳法会(のち、日本拳法会)を発足後、戦争へ出征しており、森は先輩部員たちの指導を受けていたが、やがて学徒出陣で部の主将が出征すると、後を任された森はその責任を重く受け止め、当時の日本拳法を後援していた洪火会へ入門。その本部道場で腕を磨いた。洪火会は大正末期に設立された武道修養団体で、創始者の黒山高麿は武道専門学校4期生にして、当時の大阪府警本部柔道師範を務めた猛者。洪火会は黒山の元、柔道を主軸としていたが、澤山の拳法部があり、昇段審査はここで行われていた。澤山と共に、黒山を第二の師と仰いだ森は、洪火会で初段の允許を受けると共に、黒山の使用していた黒帯を贈られている。

昭和20年、香川県の陸軍部隊へ配属された森だったが間もなく終戦、徳島へ戻った翌年、神戸経済大学(現・神戸大学)へ改めて入学すると、澤山の復員の知らせを受け、拳法修行も再開させる。この頃、曽根崎警察署の柔道場で見取り稽古をした澤山と先輩、山脇智による防具練習が、森にとって防具練習の模範となったという。

昭和22年、再び徳島へ帰郷した森は、生涯唯一のサラリーマン生活を送るが(昭和23年7月退社して拳法普及に専念)、地元の若者たちへ拳法を教えるため、道場「血誠館」を開設する(のち、「大滝山道場」と改称)。サラリーマン生活を終えた昭和23年には、大阪へ出て澤山の指導する関西大学や関西学院大学の拳法部でさらに稽古を積んだ。約一年間の修行で一区切りをつけた森は徳島で本格的に指導に専念。昭和26年、五段を允許された森に「指導させれば森」という評価が高まった頃、昭和28年、森は澤山の命に従い、日本拳法普及のため東京へと進出する。上京後、当地の様々な武道家、格闘技関係者と交流する中で、着々とその地盤固めを進めていった森だったが、秋頃、徳島へ一時帰郷していた森へ澤山から「東京での活動の中止」が伝えられた。順調に活動が展開されていただけに俄かには承服できない森は澤山へ直談判するが結論が出ないまま年を越える。その年の5月には六段を授かるも、7月に日本拳法会の幹部会により森の除名が決定。師弟間の骨肉の争いを避けるため、身を引くしかなかった森だったが、紆余曲折の末、仲介者の協力もあり、日本拳法会とは別に宗家直結の団体を作ることとなり、昭和30年5月12日、森は「日本拳法協会」を設立、東京を拠点に新たに活動を開始することとなる。

既に昭和28年の段階で、国家警察本部より関東管区警察学校で日本拳法の講習の依頼を受けているが、昭和33年、自衛隊からの要請を受け、自衛隊における「徒手格闘術」の教範作成に参画することとなる。これには柔道家であり、合気道の競技化をも果たした富木謙治なども協力して、ここに新たな「自衛隊徒手格闘技」が創案された。また、同じ頃、森は警察大学校逮捕術研究科の講師も務めており、警察の逮捕術には日本拳法が大きく影響している。昭和39年には中野に125坪の大道場を設立するが、やがて後援者の不況とともに、道場も縮小移転。平成3年(1991)に芝公園内の東京タワーの目前に本部道場を構えるが、平成11年の日本拳法協会分裂に伴い、同道場は閉鎖。最晩年は「士道日本拳法協会」を名乗り、活動を続けるが、平成19年2月10日、指導先にて突然倒れ、翌11日午後1時20分、前々年に摘出した肝臓ガンの再発による急性ショックで、帰らぬ人となった。享年81。戒名:拳哲院法城覚全居士。

日本拳法における数々の形を創出し、他武道や格闘技からも注目された“日拳ストレート”を編み出し、晩年には独自の六甲剣(木剣)や亀甲拳(鍛練具兼武器として製作された六角形の一握りほどの鉄塊)などによる錬法を創案するなど、まさに一徹の拳法人生を貫いた一生を全うされた武人だった。

(参考:「秘伝」2007年8月号「追悼——日本拳法協会創設者 森良之祐師範 一徹の拳法人生」)

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