双葉山定次
大相撲

1912~1968

明治45年(同年は7月から大正元年)2月、大分県宇佐郡天津村布都(現・大分県宇佐市下庄)に生まれる。本名:龝吉(あきよし)定次。幼少期に右目を負傷し、半失明状態となっているが、少年時代の成績は優秀、普通に進学を考えていたが、父親の事業の失敗から早くに父の海運業を手伝い、それがのちの相撲における足腰の基礎を育んだ。地元の相撲大会に出場した折に見出され、立浪部屋へ入門。シコ名を「双葉山」として、15歳で初土俵を踏んだ。

新弟子時代から稽古熱心で知られたが、入幕以前は目立つところはなく、大きく勝ち越すことはなかったが負け越すことも無く、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評された。1931年5月場所で、19歳3ヶ月にて新十両に昇進。しかし、この場所では初めて負け越しとなる。

1932年1月場所を迎えるはずが、天竜らを筆頭とする相撲協会脱退力士による春秋園事件が勃発。残留した双葉山は、再編された2月場所で西前頭4枚目に繰り上げ入幕を果たす。入幕当初は攻め込まれることも多く、だが足腰の強さで土俵際に逆転することも多かったので、「うっちゃりの双葉」とも呼ばれた。1935年には小結へ昇進するものの、なかなか芽が出ず苦労が絶えなかった。

しかし、徐々に体重も増えたことで、相撲ぶりが一変。立合から「後の先」をとる相撲で勝ち星を上げていった。1936年1月場所、7日目に瓊ノ浦を下すと、相撲史に残る前人未到の69連勝の幕が上がる。なお、この場所で関脇昇進を決めている。

同年5月場所で初の全勝(11戦)優勝を果たすと、大関へ昇進。翌1937年5月場所の全勝(13戦)連続優勝をもって横綱へ推挙される。こうして戦前における大相撲人気を支えるスーパースター、第35代横綱・双葉山が完成されていく。1939年1月場所、4日目に対戦した安芸ノ海によって幻の70連勝は絶たれたものの、2010年、白鵬による63連勝が肉薄しつつも、未だ(2024年現在)この記録は破られていない。

その後も円熟の強さを保った双葉山だったが、1941年には立浪部屋から独立し、自らの道場(双葉山相撲道場)を開設。しかし、徐々に黒星も目立つようになった双葉山は1944年11月場所6日目に東富士に敗れたのをきっかけに体力の限界を感じて現役引退を決意。一旦は周囲の慰留に撤回したものの、1945年11月場所にて番付に名を残しつつも現役を引退。結果的にその引退は太平洋戦争の敗戦と重なった。

現役引退後には年寄・時津風を襲名。道場名も時津風部屋と改称し、ここから後の時津風一門が形成されていく端緒となる。引退後、一時、新宗教と関わり不祥事を起こした双葉山だったが、その実績や国民人気もあって1947年に相撲協会理事に就任。1950年2月から3期にわたって相撲協会取締を務めると、1957年5月、日本相撲協会理事長に就任。協会の体質改善に尽力した。1962年、相撲界で初めて紫綬褒章を受章。その晩年には肝炎で入退院を繰り返す中、1968年12月16日、劇症肝炎のため56歳で没した。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈。

その強さのみならず、ひたむきに相撲道を極めんとした武人的姿勢に、武道・格闘技の枠を超えた多くの信奉者に目標とされる、昭和を代表する大横綱であった。

1912~1968

明治45年(同年は7月から大正元年)2月、大分県宇佐郡天津村布都(現・大分県宇佐市下庄)に生まれる。本名:龝吉(あきよし)定次。幼少期に右目を負傷し、半失明状態となっているが、少年時代の成績は優秀、普通に進学を考えていたが、父親の事業の失敗から早くに父の海運業を手伝い、それがのちの相撲における足腰の基礎を育んだ。地元の相撲大会に出場した折に見出され、立浪部屋へ入門。シコ名を「双葉山」として、15歳で初土俵を踏んだ。

新弟子時代から稽古熱心で知られたが、入幕以前は目立つところはなく、大きく勝ち越すことはなかったが負け越すことも無く、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評された。1931年5月場所で、19歳3ヶ月にて新十両に昇進。しかし、この場所では初めて負け越しとなる。

1932年1月場所を迎えるはずが、天竜らを筆頭とする相撲協会脱退力士による春秋園事件が勃発。残留した双葉山は、再編された2月場所で西前頭4枚目に繰り上げ入幕を果たす。入幕当初は攻め込まれることも多く、だが足腰の強さで土俵際に逆転することも多かったので、「うっちゃりの双葉」とも呼ばれた。1935年には小結へ昇進するものの、なかなか芽が出ず苦労が絶えなかった。

しかし、徐々に体重も増えたことで、相撲ぶりが一変。立合から「後の先」をとる相撲で勝ち星を上げていった。1936年1月場所、7日目に瓊ノ浦を下すと、相撲史に残る前人未到の69連勝の幕が上がる。なお、この場所で関脇昇進を決めている。

同年5月場所で初の全勝(11戦)優勝を果たすと、大関へ昇進。翌1937年5月場所の全勝(13戦)連続優勝をもって横綱へ推挙される。こうして戦前における大相撲人気を支えるスーパースター、第35代横綱・双葉山が完成されていく。1939年1月場所、4日目に対戦した安芸ノ海によって幻の70連勝は絶たれたものの、2010年、白鵬による63連勝が肉薄しつつも、未だ(2024年現在)この記録は破られていない。

その後も円熟の強さを保った双葉山だったが、1941年には立浪部屋から独立し、自らの道場(双葉山相撲道場)を開設。しかし、徐々に黒星も目立つようになった双葉山は1944年11月場所6日目に東富士に敗れたのをきっかけに体力の限界を感じて現役引退を決意。一旦は周囲の慰留に撤回したものの、1945年11月場所にて番付に名を残しつつも現役を引退。結果的にその引退は太平洋戦争の敗戦と重なった。

現役引退後には年寄・時津風を襲名。道場名も時津風部屋と改称し、ここから後の時津風一門が形成されていく端緒となる。引退後、一時、新宗教と関わり不祥事を起こした双葉山だったが、その実績や国民人気もあって1947年に相撲協会理事に就任。1950年2月から3期にわたって相撲協会取締を務めると、1957年5月、日本相撲協会理事長に就任。協会の体質改善に尽力した。1962年、相撲界で初めて紫綬褒章を受章。その晩年には肝炎で入退院を繰り返す中、1968年12月16日、劇症肝炎のため56歳で没した。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈。

その強さのみならず、ひたむきに相撲道を極めんとした武人的姿勢に、武道・格闘技の枠を超えた多くの信奉者に目標とされる、昭和を代表する大横綱であった。

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