1899年(明治32年)8月13日 – 1966年(昭和41年)1月4日。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家としての雅号。6歳の時、喧嘩で11名を傷つけ寺に預けられたが、後に寺から放逐される。修験道業者について修行。7歳の秋、千里眼能力者として福来友吉博士に見いだされた。その後、甲賀流忍術13世祖父、ならびに南蛮殺到流二世・橋本一夫斎等につき、拳法、柔術、剣術、槍術、薙刀、棒、十手、捕縄、手裏剣術等の武芸を学ぶ他、それぞれの師匠につき、茶道、生け花、音曲、舞踊、書画、彫刻を学んだ。大正3年、早稲田実業を卒業後、早稲田大学、中央大学、明治大学に学んだが、みな乱暴のため放校、同8年日本大学宗教科卒業。その後、報知、日々、やまと、国民、中外などの新聞記者をはじめ、柔道・剣道などの師範を兼ね、大正11年から陸軍戸山学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などの教授を歴任、甲賀流忍術14世、南蛮殺到流三世、心月流手裏剣術、大円流杖術、一伝流捕手術師範、日本空手道会顧問、日本古武道振興会常任理事、武術研究所所長。日本伝統武術の古文献を収集し、借覧しかできないものは筆写した。藤田の死後、これらの膨大な資料は遺族によって小田原市に寄贈され、現在は小田原市立図書館に「藤田西湖文庫」として収蔵されている。