1870(明治3)〜1944(昭和19)
琉球唐手(空手)を本土に伝えた黎明期の空手家の一人。特に実戦において同時代で最も勇名を馳せたことで知られる(晩年、自らの流儀名として「日本伝流兵法本部拳法」を名乗ったが、一般的には「本部流空手道」と呼ばれるようになる)。現在の沖縄、首里赤平の本部朝真の三男として生まれた朝基は、琉球王家の血族という名家の子としては風変わりなほど、その暴れん坊ぶりで知られる存在となる。幼少より武を好み、兄・朝勇らへの個人教授のため家を訪れてくる首里手の大家、糸洲安恒について共に唐手を学んだが、変手(当時の組手)でどうしても兄たちに勝てないため、夜な夜な遊郭の辻へ出て、当時の沖縄で腕自慢や唐手修業者たちが野試合を行う「掛け試し」に精を出した。「負け知らず」とも言われるが、時にはホンモノに出会い手痛い目にもあったという。それでも、生来の負けん気と「本部のサール(猿)」と渾名された天性のバネを活かして、よく研究を重ねたため、その実直さを愛でた唐手大家も少なくなかったようだ。泊手の松茂良興作など、何人かの指導を受け、成人する頃には一廉の実力者として糸洲からも一目置かれていたという。後年、ナイファンチの型を重要視した指導をしたため、「他に型を知らない」と喧伝されもしたが、その二冊の著書(後述)の中で様々な型への知見の深さを披露している。1922(大正11)年、大阪にあった朝基は、たまたま見物していたボクシングの飛び入り試合へ参加、巨漢のロシア人ボクサーを2ラウンドにコーサー(一本拳)の一撃で昏倒し、当時ほとんど知られていない沖縄の唐手術の実戦力を公の場で示して見せた。齢52の時である。この年、東京で開催された第一回古武道体育展覧会では、糸洲の弟子である富名腰(のち船越)義珍が唐手術の中央進出の先鞭をつけている。先の試合をきっかけに大阪で「唐手術普及会」を組織した朝基は、1923年に『沖縄拳法空手術(組手編)』を上梓。1927(昭和2)年、思うところ合って、関東大震災の痛手から急速に回復していく東京へと、大阪に妻子を残して移転。小石川原町に道場「大道館」を設立し、朝基に指導を仰ぐ小西康裕(のち神道自然流空手道創始)の斡旋で東洋大学などで空手を指導した。多士済々との交流を広げる中、1932(昭和7)年、『私の唐手術』を上梓。武術としての沖縄空手普及に尽力した朝基だったが、1939(昭和14)年、故郷に骨を埋める覚悟で沖縄へ帰郷。1944年の春、74年の生涯を閉じた。