HOME > 達人・名人・秘伝の師範たち > 嘉納 治五郎 Kanou Jigoro – 講道館

嘉納 治五郎 Kanou Jigoro – 講道館

 

1860(万延元)〜1938(昭和13)
「講道館柔道」創始者。「柔道の父」と呼ばれる一方、初のオリンピック招致(第二次大戦のため中止)など、明治から昭和にかけての日本におけるスポーツ、教育分野の先駆者として尽力した功績から、「日本体育の父」とも呼ばれる。摂津国御影(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)の名家、嘉納家の三男として生まれた治五郎は、徳川幕府の廻船方御用達を務め明治政府にも顔が利いた父・治郎作に従い、1873(明治6)年、上京して、当時最先端の教育を受ける。しかし、生来の矮小虚弱の質から強力の者に従わされる屈辱を晴らすため、いつしか、日本古来の柔術を志向するようになり、苦心して師を探し当てる。はじめ天神真楊流の福田八之助、没後にはその家元である磯正智に学び、東京大学在学期は勉学と柔術に明け暮れる毎日を過ごす。1881(明治14)年、大学卒業の年に磯が逝去すると、起倒流竹中派の達人として知られた飯久保恒年を知り得て入門、趣の異なる二流派を融合しつつ、新たな体育理論で整理することで新しい武道像を模索する。翌1882(明治15)年、弱冠23歳にして下宿先の下谷・永昌寺に道場を設けて「講道館」と命名、近代柔道の幕開けをみる。この後、上二番町、富士見町、下富坂と移転していく度にその規模を大きくしていった講道館は、四天王と呼ばれた富田常次郎、西郷四郎、横山作次郎、山下義韶らが他流試合などで活躍した初期から多士済々の柔道家たちがその門に学び、柔道を国内外へと広めていった。講道館が前面に推しだした乱取り試合の普及は、各地に伝えられていた従来の古流柔術諸派も巻き込み、柔道の発展に大きく寄与したが、一方で、試合に特化した技術の横行をみて、本来、柔道が備えていた総合武道としての色彩を薄めていった。嘉納はこれを各種の「形」の研究・整理に託す一方、講道館内で「古武道研究会」を起ち上げ、古流剣術や棒杖術、あるいは空手といった打撃格闘技を柔道の中に取り込むことに腐心したが、大勢は変わらなかった。また一方で、古流勢力が結集した形の大日本武徳会、その流れを汲みつつ寝技の優位性を特化させた高専柔道の台頭は、自らが理想とする柔道の姿とのギャップから、嘉納を悩ませる存在へと進展していく。柔道の教育制度への確実な浸透を果たしたその功績は揺るぎないが、講道館としては多くの課題を抱えた晩年の嘉納は、東京オリンピック開催を決めた海外渡航からの帰途、1938年、氷川丸の船上で客死した。

【関連商品】
月刊秘伝2020年9月号・特集「柔道は強い! 総合格闘“術”としての柔道」




▶ キーワード検索

ページトップへ