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喜屋武朝徳 Kyan Chotoku – 少林流・少林寺流 空手

18701945

 明治3年(1870)、旧琉球王国においても名家となる首里義保の家に生まれた朝徳は、父であり琉球王国最後の国王である尚泰王に仕えた賛議官であった朝扶より、15歳から空手を学びだした。16歳となると、父の師である松村宗棍に入門。また、当時、泊村に住んでいた親泊親雲上からも指導を受け、首里手、泊手を修めていった。9歳の折、王座を追われた尚泰王に付き従った父と共に本土へ渡った朝徳は、26歳となって再び沖縄へ戻り、親泊興寛や松茂良興作、一説に糸洲安恒らの元で空手を学び続けたといわれる。

 生来、痩身にして体も小さかった朝徳は、「唐手(空手)の技の三割は身体的なもので、残りの七割は巧みに応用された技、巻藁の稽古、戦略、そして智恵である」を信条に、身体のバランスを重視した訓練により敏捷なる動きをもって、小よく大を制する空手を考え抜く一方で、巻藁の稽古では50以上の打ち方を考案するなど最もこれを得意としたという。また、自宅近くを流れる比謝川の川辺で、素早い足捌きの稽古を絶え間なく繰り返し訓練したとも。

 30歳を迎える頃には首里手と泊手の両方の遣い手として有名となった朝徳には、多くの挑戦者が手合わせを求めたが、一切断ることなく、負けたということもなかったようだ。そんなことから、実戦における強さで知られた朝徳だったが、”真の空手の技には型の訓練が最も重要である”と強調する一方、一部の首里の武士たちからは、「喜屋武の型は『田舎手』である」と揶揄する向きもあった。

 朝徳は、松村宗棍よりセーサンとウーセーシー(五十四歩)小を学んだとされ、ナイハンチは糸洲安恒に(一説に松村宗棍よりとも)、松茂良興作の弟子である真栄田義長親雲上からワンシュウを、松茂良自身からはチントーをそれぞれ学んだとされる。また、北谷の屋良一族の末裔より、北谷(チャタン)屋良のクーサンクー(公相君)も学んだとされるが、朝徳のこれらの型は彼独特の趣があり、空手を知る者が見れば、その型が朝徳のものであることが一瞬で分かったという。また、武器術としては、八重山の徳嶺親雲上(あるいはその弟子)に徳嶺の棍を学んでいる。

 「チャンミーグヮー」の愛称で知られた朝徳は、一般に「チャン」は喜屋武(キャン)の沖縄訛り、「ミー」は目、「グヮー」は小の沖縄読みで、朝徳の目が小さかったためのニックネームとされるが、一説に、名家「殿内(ドゥンチ)」の三男坊として「ミードゥンチ」とも呼ばれていたことから、この「ミー」の意であるとも。また、ケガの為、片目を無くしていた為とする説もある。

 琉球王国消滅後、養蚕や人力車夫、あるいは妻が養豚や染め物をしながら生計を立てていた喜屋武家だったが、空手の弟子たちには経験を積ませるためによく飲み屋などへ連れて行ったという。琉球士族として伝統の技術を後世へ伝えることに意欲を燃やした朝徳は、70歳を越える晩年まで、人前で演武を披露し、その円熟の極みで観る者を魅了した。

 太平洋戦争の激化の中、沖縄戦直後となる1945年9月20日、沖縄県中部の石川村において、食糧不足をはじめとした様々な混乱の中、一代の拳豪はその波乱の生涯に幕を閉じた。

(参考:ドラゴン・イケミヤ共同提案体『空手発祥の地 沖縄』沖縄県)





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