1908~1966
1908(明治41)年9月11日生まれ。広島県出身。1926(大正15)年、矢吹益一に剣の手ほどきを受け、同年8月、18歳で上京。いくつかの道場を渡り歩く中、当時、本郷真砂町にあった中山博道の有信館道場に入門する。中山の元で、剣道に励み、神道無念流剣術、夢想神伝流居合を修める。その後、中島五郎蔵、中倉清とともに、有信館三羽烏の異名で知られるようになる。
1927(昭和2)年、宮内省皇宮警察部に就職、のち1931年には警視庁へ移り、翌1932年5月に開催された宮内省皇宮警察部主催の済寧館武道大会において、精錬証新進剣士5人総当たり戦に出場、朋友・中倉清や、やはり強豪にして“タイガー・モリ”の異名で日本フェンシングの先駆けともなった森寅雄などを破り、全勝となる。同年開催の第4回全国警察官武道大会では警視庁の大将として初優勝へ導く。また、一時、合気道の植芝盛平の養子となっていた中倉の誘いを受け、盛平の神技に触れ、翻弄された経験を後に語っている。
1934年には朝鮮へ渡り、京城帝国大学予科や京城本町警察署の剣道師範として多くの後進を指導する。1945年、フィリピンから帰国後、日本で終戦を迎える。終戦後、武道禁止令の中も剣道を続け、1952年10月の全日本剣道連盟発足後、千代田区神田一ツ橋の国民体育館で指導を始める。この朝稽古がいつしか「羽賀道場」と呼ばれるようになる(現・一剣会羽賀道場【卯木照邦会長】)。
昭和の中頃には多くのプロ野球選手への指導や、映画「宮本武蔵」で佐々木小次郎役を演じた俳優の高倉健へ殺陣の指導などをしたことでも知られる。1966年12月11日、享年58にて没するまで、「斬れる剣道」を標榜し、その気迫、気位で多くの後進の指針となった。評伝に堂本昭彦著『羽賀凖一剣道遺稿集』、近藤典彦著『最後の剣聖 羽賀凖一』、卯木照邦著『昭和の鬼才 羽賀凖一の剣道』などがある。
(参考:『昭和の鬼才 羽賀凖一の剣道』 写真協力:一剣会羽賀道場)
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