1903(明治36)※1902年説あり〜1988(昭和63)
「太気至誠拳法」通称:「太気拳」創始者。福岡県に生まれた澤井は幼少時より武道を好み、地元の武道場(隻流館)へ入門、古流柔術や剣術を3年間学んだ。その後、京都において柔道、剣道を本格的に学ぶと、特に柔道に力を入れ、最終的に柔道五段を得たほか、剣道、居合道ともに四段にのぼる腕前となる。1931(昭和6)年、当時の満州(中国東北部)へ渡ると、北京にて大成拳(意拳)を広める王向斎と出会い、立合いを試みるが全く歯が立たず、弟子入りを決意する。はじめは容易に入門を許さなかった王も、澤井の熱意に入門を許可する。このとき、兄弟子だった姚宗勛とは、のちに自らの弟子を通じて再び親交を持つこととなる。終戦後、帰国した澤井は1947年に王の許可を得て「太気至誠拳法(太気拳)」を創始。主に明治神宮の敷地内を野天稽古場として、少数の若者たちへ太気拳を教授した。ただ立つだけにみえる立禅と、素手素面で撃ち合う組手稽古の特異性から、多くの腕自慢、武道修業者がその門を叩き、”知る人ゾ知る”存在として、武道・格闘技界に影響を与えていく。1976年、日貿出版社より『実戦中国拳法 太気拳』出版。長年、極真空手の創始者、大山倍達と親交深く、その門下からも多くの弟子が太気拳に触れる事となるが、中でも第5回全日本王者、第一回全世界大会準優勝となる盧山初雄が1980年に上梓した『生涯の空手道』(スポーツライフ社)で澤井を紹介したことで、一般的にもその存在が知られるようになる。1982年には高弟の一人である佐藤嘉道が『拳聖澤井健一先生』を上梓。初期の門弟では子息の澤井昭男のほか、岩間統正、佐藤嘉道、オランダ人のヤン・カレンバッハ、盧山初雄(以上、五十音順)の五人が教士七段を許されている。その後、さらに他流との交流も盛んに行われ、錬士五段を受けた天野敏、佐藤聖二、島田道男、高木康嗣、久保勇人(以上、五十音順)らが現在も指導者として活動している。澤井の没後、極真空手をはじめとした競技大会においても、太気拳の稽古を経た多くの強豪たちが活躍し、一般的にもさらに広くその名が知られるようになった。