1883(明治16)〜1969(昭和44)
合気道開祖。和歌山県田辺に生まれ、若くして柔道をはじめ古流柔術数流を学ぶ。のちに北海道開拓民として現地に赴いた折り、大東流合気柔術の武田惣角と出会い、入門。1922(大正11)年、39歳のとき、大東流合気柔術教授代理を授かる。この間、大本教の実質的な教主である出口王仁三郎と出会い、深く傾倒していく。大本教を通じて言霊学の研究に没頭、自らの武道をこれと融合することで、新時代の武道像を作り上げていく。昭和に入り、東京・若松町に皇武館道場を開設、当時の軍上層部や知識階級の人々を主な門人として新たな武道「合気道」を普及する。その後、戦争の悪化に伴い、茨城県岩間に合気神社建立を図り、東京を子息・吉祥丸へ託して移住。現地と東京を往復しつつ、各地で精力的に合気道を指導し、「武農一如」の生活を続ける。戦前の皇武会は戦後「財団法人合気会」となり、本部道場長・植芝吉祥丸を中心に内外に発展、盛平は「合気道開祖」として、すべての合気道家に尊崇される存在となる。1969年、一昨年新築がなった東京の本部道場敷地内の自宅で逝去。合気会は二代道主として吉祥丸へ受け継がれ、現在、盛平の孫である植芝守央第三代道主に引き継がれている。別名:「守高」「常盛」など。「合気道」命名以前:大東流合気武術、相生流柔術、大日本旭流柔術、皇武館合気武道、など。