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王 向(薌)斎 wang xiangzhai(Ou Kousai) – 意拳創始者

1886〜1963
近代中国武術界の革命児ともいえる王向斎は1886年11月24日、中国・河北省深県魏林村に生まれた。生来、病弱であった王少年は8歳より、親戚関係にあり当代随一の武術家の一人として知られた郭雲深(1822〜1898)に武術を学び、師が79歳で亡くなるまで師事した。
十代前半で氏を亡くした王だったが、何人かの兄弟子からその技能の高さを認められ、1907年、北京へ出ると、軍隊で働きながら身を固めると共に、1911年より北京、次いで1913年からは天津で、師から学んだ形意拳を教授するようになる。この頃より陸軍部の武技教練所にて教務長を務める傍ら、形意拳の名師たちや摔角(シュアイジャオ)の馬玉清らと交流した。
そして1917年頃となり、後の王の武術人生を決定づける転機が訪れる。全国を廻る武術求道の旅の始まりである。河南省崇山少林寺を皮切りとするこの旅で、各地の武術家と交流しながら、時に教えを受け、また手合わせした王は、各地で得がたい経験を積んでいった。各地で連戦連勝を重ねた王だったが、湖南省で「江南第一妙手」の異名を持ち、心意派、鶴拳を得意とした解鉄夫に敗れ、のち、その教えを熱心に受けている。また、福建省で同じく鶴拳に優れた方恰庄とは互角の勝負となり、特に両者を通じた鶴拳との交流は、のちの意拳創始に多大な影響を与えたとされている。また、上海にて交流した心意六合八法拳の呉翼●(「羽」を冠に「軍」)を高く評価し、趙道新、韓星橋、張長信といった「四大金剛」と称せられる自らの高弟たちにその技術を学ばせている。
1926年には再び天津、次いで上海にて指導を再開するが、この頃より自ら研鑽工夫を重ねた独自の教授システムにより、技撃と健身の両面を重視した指導を始めている。それは伝統武術が長年培った型(套路)を主体として学ばせる形式を廃し、より武のエッセンスを直接的に学ぶ革新的な方法論を提示するものだった。またこの頃、当時のボクシングフライ級世界王者のハンガリー人と試合した王は、立ち合うや否や片手を接触させると、たちどころに相手を吹っ飛ばすという離れ業を披露し圧倒してみせている。
1930年代には故郷・深県をはじめとした各地で指導した王は、招きにより後の首都・北京(当時「北平」)に赴き、同地で自らの拳法を「大成拳」として教授した(この名称は王を招いた張玉衡、斉振林らによって贈られたものといわれる)。この地で王は、のちに自らの衣鉢を継ぐこととなる姚宗勛を弟子とする。1939年には北京の四存学会技撃班で指導する傍ら、当地の「実報」誌に広く武術交流を求める旨を掲載し、多くの武術家の訪問を受けるが、その中で王の高弟すら打ち破る者はいなかったという。
この頃、日本人の澤井健一が王へ挑戦、まったく歯が立たなかったことから入門を熱望するが、なかなかその願いは叶えられなかった。しかし、遂にその情熱を受け入れた王は親しく指導し、澤井は帰国後、王の許しを得て自らの拳法「太気至誠拳法(太気拳)」を創始、多くの日本の若者たちへ教授することとなる。なお、同時期、のちに日本のレスリング界に多大な影響を与えた八田一朗がやはり王を訪れ、交流している。
日本の敗戦、日中戦争終結後の1947年、北平太廟(後の労働人民文化宮)で秦重三、陳海亭、孫文清、于永年らによって中国拳学研究会が発足、その会長に王は就任している。しかし1949年の中華人民共和国成立の年、研究会は活動中止となり、王は中山公園で養生を中心とした站樁功の研究に没頭。多くの病人へ站樁功を指導して、その後の医療保険事業へ大いに貢献した。
1963年7月13日、天津で多くの人に惜しまれつつ78歳の生涯を閉じた王は、新たな時代へ向けて伝統中国武術が持つ可能性を確実に押し広げた武人だったと言えるだろう。


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