1902(明治35)〜 1998(平成10)
「大東流合気武術佐川道場」主宰、大東流宗範。北海道湧別出身。父・子之吉は武田惣角に大東流を熱心に学ぶ信奉者の一人だったが、早くから小野派一刀流(師:佐々木亮吉)、甲源一刀流(師:富田喜三郎)といった古流剣術を学んでいた幸義少年は、わずか10歳で惣角と出会い、剣術の地稽古の指導を受け始める。その後、12歳で正式に入門、本格的に大東流を学び出す。1920(大正9)年、上京し渋谷に下宿しながら、大東流の実地修行を重ねるが、一方で大東流の教伝もこの頃から始めている。なお、のちに語るところによれば、すでに17歳にして武田の技法「合気」を自得していたという。1932(昭和7)年、武田より「教授代理」を許される。その後、1936年頃より武田の巡回指導に助手として同行、各地で開かれた講習会で大東流を教授する。1940(昭和15)年には東京・中野に転居、初めての道場を開く。1943年、武田惣角が逝去すると、一時、武田の身内の推薦により大東流宗家に指名されるが、その後、武田の三男、時宗へそれを譲り、自らは「宗範」を名乗るようになる。1955年、東京都北多摩(現・小平市)に「大東流合気武術総本部」を設立。その存在は大東流関係者のみに知られていたが、1978年の松田隆智編著『秘伝日本柔術』で胴上げ合気潰しや合気二刀剣などを初めて公開、広く武道界に衝撃を与える。以来、幻の達人として注目されるが、容易にマスコミに登場することなく、雑誌ではわずかに福昌堂刊「月刊空手道」や作家津本陽を解して「週刊文春」などに登場したのみ、書籍には弟子の木村達雄による『透明な力』でその業績、言行録が公開されたのが、生前唯一のものとなる。それでも、その生涯にわたった鍛練の歴史と、体現した技術の高さ、武人としての矜持に今なお、「不世出の達人」と尊崇を集めている。