
左が増田俊也。右が和泉唯信。増田が3年目、和泉が5年目のときの写真。
「中学高校時代は陸上部だったんです」(舟山)
舟山 私は初心者で。なんで合気道部に入ったかっていうと、高校まで陸上部で。
増田 何が専門だったんですか?
舟山 中学校では短距離ですごい速かったんですよ。で、高校で伸び悩んで、短距離は絶対無理だなと思って中距離に変わって。でも中距離もまあまあ。鳴かず飛ばずで、もうこれはもう無理だなと思って。
増田 でも中距離って一番きつい種目だ。
舟山 うん。で、大学でもやっぱり体育会に入りたくて、心機一転、これまでの経験の差が出ないもの、だから武道やってみたいなと思って。武道の中でも、柔道部はもともと女人禁制だったから無理なんだけども、柔道とか剣道は結構ね、小さい頃からやってる人もいるし、でも合気道とか少林寺拳法っていうのはほとんど経験者がいないから、じゃあ同じゼロからのスタートラインでって。だって最初から負けるの嫌だから。最初からスタートで負けるの嫌なんで、みんな初心者のものって言った時に、じゃあ合気道か少林寺拳法だなあと思いつつ、クラスの仲間でみんなでつるんで体験入部に行って、たまたま最初に合気道部に行ったことでそのまま入っちゃったっていう。
増田 北大を受験したのはどうして?
舟山 私はね、とにかく農学部に行きたかったんで、大学はもう絶対北大に決めてて。だから現役のときも北大一本。
増田 そういうところは僕と一緒ですね。
舟山 で、浪人の時は一応滑り止めで東京の私立の農学部受けましたけども、でもとにかく北大に行きたかったんですよね。もっと遡ると、母の実家が北海道の旭川の農家で。そういった原風景、農村風景とか田舎の原風景があって、広い大地に憧れてっていうところはありました。だから私は本当に北大しか考えてなかった。北大の農学部しか考えてなかった。
増田 農水省行って、それから議員ですよね。
舟山 議員になる気は全くなくって。今話したように農学部行きたくて、農業の仕事したくて。北海道の農業を何とかしたいって思いはずっと持っていて。本当は北海道庁に入ろうかなと思ったんだけれども。
増田 それが国家1種に変わったのはなぜですか。
舟山 体育会のみんなに驚かれたんだけど「なんで4年で卒業するんだよ、もったいねえ」って言われながら卒業しちゃって。道庁も受かったんですけれども。でも北海道でこんなにね、真面目にやってる農家が一番借金が多くて非常に厳しくて。国の言うことを真面目に聞いてたら大変なことになっちゃってね。
増田 パイロットファームとかね。
舟山 そう。それこそ日本の食料基地と言われながら、こんなに大変なのは国の政策が悪いからだと思い、北海道に残りたいけど、でもやっぱり悪いものは元から変えていかなきゃいけないんじゃないかと思って、国の政策を変えていこうと思い、農水省を選びました。
増田 なるほど。
「農水省辞めた後に選挙に出たきっかけは?」(増田)
舟山 でも入ってみるとそんな一人の力では何ともならず、歯車の一枚で。もう何ともならなくて、悔しくて泣いたこともありました。でもいろいろあったんですけど、それでも楽しく農水省で仕事をしてたんだけれども、ご縁があり、結婚を機に辞めて山形に行って。嫁いだ先が自営業で、燃料、ガス屋さんだったんですね。農業とは全然関係なかったんですけれども。
増田 それがなぜ選挙に。
舟山 山形で平穏に過ごして四年経った頃に、当時、山形は保守王国とか自民党王国って言われてる中で、野党の候補者が全然いなくって。で、農水省の時の上司と、かつて自民党の重鎮だったんだけれども離党して政治改革目指して野党に来た鹿野道彦さん、数年前に残念ながら他界されちゃったんですけども、その方とのご縁で「ああ、山形だったらあいつがいるぞ」と、その上司が余計なことを言って、その鹿野道彦さんから誘われて、結局断り切れずに出たのが最初で、落ちました。落ちて三年後に受かって、また六年後落ちて。で、その三年後また受かってっていうことで今に至るんですけども。人生何があるかわかんないなっていうのが率直なところです。本当に私、役人にはなりたかったけど、議員になる気は全くなかったんですよね。
増田 北大行ったこととか合気道をやったこととは関連とかはないんですか。
舟山 合気道をやって、根性が据わって、肝が据わったっていうか、そういったところはあるかもしれません。
増田 なるほど。
舟山 やっぱり武道っていいですよね。私、初心者だし、別にそんなに技はうまくなかったんだけど負けん気だけは強くって。で、さっき言ったように、うちの流派って試合があるから、私、試合はすごい自分の中のモチベーションなんですよね。勝ちたいっていうか、負けたくないっていうか。だから試合で勝って「やったー」って大騒ぎして、注意を受けたことありました。
増田 ダメなんですよね。ガッツポーズとか。柔道もそうです。
舟山 武道ではそういう相手への思いやりを欠くような下品なことはダメだって注意を受けた記憶があります。

前列左から3番目、師範の隣に舟山さん。師範の右は中村派宗家(中村久)。
「練習前の黙想が苦手で無になれなかった」(舟山)
増田 その試合は負けにされたんですか。
舟山 いえ。注意だけで勝利は取り消されはしませんでした。私、最初はね、黙想なんかもすごく苦手で。
増田 黙想が苦手? どうしてですか?。
舟山 合気道部は最初に黙想するんですけど、無になれないんですよ。
増田 無心になれないと。
舟山 はい。今晩何食べようかなとか、どこ行こうかなとか。あ、いけない、いけない、考えちゃいけない、考えちゃいけないっていう風に考えてたりとか、そんなんでね、すごい苦手だったんですけど、上級生になるうちにだんだんわかってきて。
増田 合気道部は黙想を何分もやるんですか?
舟山 どのくらいだったかな。そんな長くないですよ。
増田 二十秒か三十秒でしょ。
舟山 そうですね、三十秒から一分ぐらいかな。
増田 それがだんだん精神集中できるようになったんですね。
舟山 はい。あともう一つ記憶にあるのはね、柔道場に掛けてあった扁額
《精力善用自他共栄》っていうの。
増田 はいはい。
舟山 あの文字がなんかすごい印象的で、すごく覚えてます。
増田 なんで印象的なんですか?
舟山 なんか知的ですよね。柔道の人にとって当たり前かもしれないけど。
増田 うーん。まあ昇段審査のペーパーテストにも出てきますけど。創始者の嘉納治五郎先生の言葉です。
舟山 そうなんですね。
増田 はい。ところで柔道部の練習の後に道場使うとそうとう汗臭かったんじゃないですか?
舟山 うん。汗臭かった。畳が濡れてたりとか気持ち悪いと思った。
増田 最後に〆の腕立て伏せを全員でやるんですよ、三百回。それでそれぞれの身体の下の畳に汗の水溜まりができるんです。
舟山 私一回ね、二年目か三年目の時に結構ひどいウオノメができたんですよ、いくつも。これ絶対柔道部に伝染されたと思って。
増田 どこに? 足の裏に?
舟山 うん。すっごい恨んでたんだけど、最近改めて調べてみたらウオノメは伝染らないって書いてあったから。なんかごめんなさい。柔道部に濡れ衣ずっと何十年も着せてました(笑)

精力善用自他共栄
「舟山さんと松浦君は衝撃的な出会いをしたとか」(増田)
増田 いま松浦義之(増田の三期下の柔道部員で吉田寛裕や中井祐樹の同期/四年目時には体育会委員長も務めた)君が来たんで、対談に加わってもらいましょう。
松浦 途中からすみません。呼んでいただいてありがとうございます。
増田 松浦を呼んだのはじつは松浦が一年目のとき舟山さんとすごい出会い方をしたとかで(笑)
松浦 はい。私が一年目の時に、えー、舟山先輩が四年目で。その年に衝撃的な出会いがあったんですよ。
舟山 なんか私あれだよね、トイレのドア開けたんだっけか。
松浦 そうなんですよ。はい。
舟山 松浦君がトイレのドアの鍵閉めずに、人のアパートのトイレ入ってたんだ。私は同じアパートだった吉田君(吉田寛裕)かとずっと思ってたんだけど違ったと。
松浦 違うんですよ。舟山さんと寛裕が同じアパートで。
舟山 そうそうそうそう。
松浦 それで寛裕と遅くまで飲んで帰ってきて、その日は寛裕の部屋に泊まって。翌朝にトイレで用を足してたんですよ。そしたら舟山先輩が来て扉を開けたんです。廊下で足音が聞こえたんで、僕は誰か来たなと思って鍵閉めようと思ったんですけど、ドアノブまで手が届かなくて、バーンと開けられて。で、舟山さんが「ごめんなさい!」って言ってバーンと閉めて。それがファーストコンタクトです。
舟山 そうだ。で、洋式だったらね、あんまりお尻とか見えないんだけど、当時は和式だからね(笑)
増田 僕もそういうところ住んでたんですけど、当時は北大のまわりにたくさんそういうアパートがありました。玄関共同で風呂無し、トイレは共同、廊下の左右にずらりと六畳間が並んでて二階建てで。
舟山 そうそう。
松浦 和式で、男が小用をたしやすいように便器が一段高くなっていて……。
増田 ドア開けたら目の前に松浦のお尻が(笑)
松浦 はい。そこをバーンと開けられて、まさしく私の、はい、尻を真正面で見ていただきまして……。
舟山 いや、でも私ぜんぜん悪くないのにさ、「ごめんなさい!」って言って、なんか本当に申し訳ない気持ちで帰ってった気がするなぁ。
増田 そういうことがあったことは舟山さんは覚えておられるんですか?
舟山 覚えてる。でも私それが吉田寛裕君かと思ってた。そのアパートにいたから。柔道部だと思って。
増田 柔道部といえば、もう汗かトイレかと(笑)
舟山 うん。そう(笑)
◆松浦義之(まつうらよしゆき)1969年生まれ。兵庫県神戸市出身。北海道大学柔道部では増田俊也の3期下、つまり増田が4年目時代の1年目、中井祐樹や吉田寛裕の同期にあたる。一本背負いや袖釣り込み腰で活躍し、七帝戦本番でも大事なところで必ず抜いた強豪。4年目時には体育会本部の委員長を務めるなど人望も厚かった。
「いま一番下の娘が北大の二年目なんです」(舟山)
松浦 それであの、僕が白状したのが二十年後ぐらいに体育会の飲み会が東京でありまして、それでたまたま舟山先輩が隣だったんですよ。それで挨拶して、「舟山先輩覚えてますか? 二十年前の話ですけど、こういうことがあったんですよ。それが舟山先輩と私のファーストコンタクトだったんですよ」って言ったら。「お前か!」って言われたのがはい、二言目でした。
舟山 いや、面白いご縁で(笑)
増田 松浦は、僕や舟山さんが四年目のときの一年目だけど、体育会本部に入ったのか二年目の始めだったからまだ知らなかったんですよね。
舟山 はい。吉田君のところに遊びに来て、トイレに入ってる時にばったり会ったわけです(笑)
松浦 黙っといたらよかった(笑)
増田 舟山さんと吉田寛裕が入ってたそのアパートの名前は。
舟山 第二明和荘。まだありました。
松浦 お、すごい。あるんですか。
舟山 いま実はね、娘が北大の二年目なんですよ。四月から二年生に進級して。うち子供三人いて、一番下の娘が北大に入って。それで札幌行ったときに見にいったらまだありました、そのアパート。
増田 昔はね、ああいうアパートばっかりだったんですよね、北大のまわりは。
舟山 そうそう。本当に我々の頃はああいうアパートばっかりで。たぶん卒業する頃からだんだんワンルームマンションが増えてきて。
松浦 はいはい。そうでしたね。
増田 バブルでどんどん壊していってマンション建っちゃって。
舟山 うん。ほんとね、トイレ共同で風呂がなくて。うちからちょっと行くと宝泉湯っていう銭湯があった。
増田 銭湯いっぱいありましたね。
舟山 うん。宝泉湯は北二十条西七くらいだったかな。
増田 ありましたね。
舟山 あそこまでよくね、私も銭湯に行ってました。冬はね、寒いからタオルかぶっていくんだけど、風呂上がりはこう出てる前髪が凍ってシャリシャリシャリと音がして。
「柔道部員は道衣の下にパンツはいてないんです」(増田)
増田 懐かしいですね。僕らはあまり銭湯使わなかったけど。
舟山 え? 増田さんや松浦君は風呂付きにいたの?
増田 いや、風呂ないけど柔道部は武道館でシャワー浴びたから、練習後に。
舟山 あ、そっか。
増田 あとね、あの、皆さん知らないんだけど、柔道部って基本的に柔道衣の下衣の下にはパンツはいてないんですよ。
舟山 パンツを?
増田 松浦はいてた?
松浦 はいてないです。
増田 はいてないでしょ。意外と知られてないですよ。現在のルールでは青色柔道衣と白色柔道衣を会場で着替えなきゃいけないからスパッツ着用が義務付けられてるみたいですけど、昔はそんなルールなかったから。だから下着も汗で汚れないから、シャワー浴びてすっきりして綺麗なパンツをはいて帰ることができたんです。
松浦 はい。ものすごく汗かくからパンツなんかはいてたら本当にびしょびしょになるし、破れたりもするし。
舟山 あ、そっか。
松浦 はい。
増田 だからシャワー浴びてすっきりして服を着て帰ればっていうのはありますね。
舟山 なるほどね。まあ彼女ができるぐらいですからね。
増田 いやいやいやいや。舟山さんは当時彼氏いなかったんですか?。
舟山 私はね、えっとね、二年目の終わりあたりからいました!
増田 えー、誰ですか。
舟山 体育会本部の〇〇〇〇君。
増田 え? そうなの。
舟山 はい。
増田 そうなんだ。〇〇の彼女だったんだ。
舟山 ふふ。そうです。
増田 合気道部はたとえば応援団とかは交流なかったですか。
舟山 合気道部としてはあまりなかったけど、体育会本部は各部と合コンとかやっていたんで、けっこうつながりありました。瀧波君(後の応援団長・瀧波憲二)とは支笏湖かどっか一緒に行ったことある。
増田 へえ。
舟山 体育会本部で応援団の先輩に連れられて。車で「遊び行くぞ」なんて言われて。それ二年目の時だったかな。四年目の先輩に二人で連れていかれた。
増田 当時の応援団の上の人たちって豪快だったですよね。
舟山 豪快でした。
増田 早逝した人たちも何人もいるけど。
舟山 はい。
増田 石橋さんとかいまテレビ局に入ってて、ときどき海外のレポートとかで映ってますよ。
舟山 石橋さんね。懐かしい。水産学部の。
増田 そう。背が高くてかっこいい人。 【続く】■
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