明治24年(1891)9月26日、岡山県高梁市にて、吉田能敬の長男として生まれる。幼時は祖父より剣道を学んだが、明治42年に早稲田大学予科へ進むと(のち、商科)、翌年7月より弓道を始める。大学予科を二年で中退すると、大正年間には大陸に渡るなど事業に励みつつ、時代の荒波にもまれる中、大正14年(1925)、射による人間教育の必要を痛感し、当時、自宅のあった大久保の柏木に弓道場を開設。昭和2年(1927)には仙台へ弓聖・阿波研造を訊ね、肝胆相照らす師弟の契りを結ぶ。
翌昭和3年3月、西荻窪に遊神館弓道吉田教場を創設。同所へ阿波が主宰する大射道教の東京支部を置く。日本大学弓道部師範、陸軍戸山学校教官、成城高等学校師範などを歴任。阿波研造永眠から2年後となる昭和16年8月、日光東照宮主催全国武道大会における特別演武として、武将兜の固物射貫に成功。同年秋には明治神宮における特別演武で厚さ3ミリの鉄板を射貫いた。翌年、宮内省済寧館における天覧武道大会で優勝し、短刀を拝受する。
戦後、昭和22年に全日本弓道聯盟を発足させ、これに参画。範士号取得。日本弓道の復活に尽力する。昭和27年、自己の射法と理論の深化不朽を図るため「紫鳳会」を発足させる。昭和30年、新たな大日本武徳会結成に尽力、大範士取得。多くの固物射貫を演じ続け、独特の射法を確立。昭和43年、自らの射技射法を総括し「日置流竹林派正法流」と命名する。
昭和60年11月15日、急性肺炎のため逝去。享年94歳。墓所は郷里の岡山県高梁市にある寿覚院にある。