1909~1989
明治42年、山口実美(じつみ)として鹿児島県鹿児島市に出生。14歳の時、沖縄出身の大工・丸谷武雄に出会い、唐手の手解きを受ける。昭和4年(1929)、新選組屯所跡に「剛柔流空手道拳法道場」を開設、「昭和新選組」と称する。同年、立命館大学入学、「唐手術研究会」を創設する。2年後には剛柔流開祖、宮城長順を立命館大学唐手研究会に招待し、直接指導を受ける。昭和11年には大日本武徳会の柔道部の一部として唐手が編入され、翌12年に「唐手」から「空手道」と改められ、武徳会内に空手部が設けられた。この年、宮城より「剛玄」の道名を授けられ、本土における剛柔流の普及を任される。
昭和14年、石原完爾将軍の命により、唐手研究会の指揮を朋友の曺寧柱らに託して満洲へ渡り、東亜連合の活動に従事する。同年、東亜武道大会のため、蒙古相撲などの選手を満洲代表使節団として引き連れ一時帰国する。昭和16年、大日本武徳会より空手道錬士号を授与。翌年、満州国首都・新京で三男・絋史(後の全日本空手道剛柔会、山口剛史会長)を授かる。昭和20年、満州国で終戦を迎え、シベリア抑留となる。過酷な強制収容所生活を送り、昭和22年11月に帰国。
昭和24年、台東区浅草日本堤に移住した際、同所に戦後初めて「剛柔流空手道道場」を開設する。翌25年、宮城長順を名誉会長に迎え、「全日本空手道剛柔会」を結成。道場も浅草千束に移転し、本格的な活動を開始する。昭和26年、宮城長順より十段範士号を授与、その二年後となる昭和28年10月8日に宮城長順は逝去する。昭和38年、両国国技館にて第1回剛柔会全日本選手権大会を開催。翌39年に本土各流派団体の大同団結がなり、全日本空手道連盟(全空連)が結成、剛玄は元老に就任する。
昭和40年、国際空手道剛柔会結成、会長に就任する。昭和41年、自らの半生を綴った『剛柔の息吹』刊行。昭和43年、杉並区善福寺に本部道場を設立。昭和44年、空手道普及の功績から藍綬褒章を受賞。全空連主催による第1回世界大会が開催された昭和45年、二冊目の著書『空手道教範』を出版。昭和46年には日本空手道専門学校を設立、校長に就任している。
昭和47 年には武道顕彰(名誉有功章)受賞する一方、全空連剛柔会を離れ、「全日本空手道剛柔会」として独自の道を歩み始める。昭和49年、フィリピンのマルコス大統領よりタマロー勲章を受ける。昭和53年には明治神宮会館にて、宮城長順先生25周年祭顕彰大会を開催、合わせて沖縄墓参を行う。
平成元年(1989)5月20日午前6時32分、急性心不全の為、東京都杉並病院にて逝去。享年81。全日本空手道剛柔会より「拳聖」の称号が贈られた。海外では「The Cat」とも異名され、その長髪で厳めしい風貌は”空手家”の一つのスタンダート・スタイルとして認知される一方、慈愛に満ちた独特の愛嬌が多くの人に慕われた「山口剛玄」が、不世出の武道家の一人であったことは間違いない。
(参考:『空手道 創世伝説』福昌堂)