1928~1988
昭和3年生まれ。青年期より空手や杖道、合気道、中国拳法などを立て続けに学ぶ。合気道の源流である大東流合気柔術に強い関心を抱き、各地に大東流師範を訪ね、研究・研鑽を重ねる。昭和37年(1962)、当時勤務する電電公社に合気杖道部を設立。
昭和39年、大阪に大東流免許皆伝の久琢磨師範を訪ね、門人となる。その後、電電公社を退社するも、昭和49年には朝日カルチャーセンターにおいて「女子合気道」の講師となって、後進の指導を続ける。大東流の中興の祖とされる武田惣角の30回忌記念演武会には、久の一門として参加し、主催の武田時宗大東流合気武道宗家をはじめ、幸道会の堀川幸道、惣角の最後の教授代理であった山本角義など、大東流の主要な師範たちとの交流を深めた。昭和46年、著書『図解コーチ合気道』の初版を刊行する。
昭和55年には久が逝去するが、その前に大東流を柔術、合気柔術、合気之術からなる「日本伝合気柔術」として、免許皆伝を許された鶴山は久を初代宗家とし、自身は二代目宗家となって以後、同流の普及、発展に尽力する。
昭和58年、著書『図解コーチ護身杖道』を出版。自身の学んだ様々な武術を日本伝の中に包含しつつ、大東流研究の一環として新たに師事していた新陰流剣術の大坪指方より昭和60年、師範印可を受けて、日本伝で称する小野派一刀流系と柳生新陰流系の二大系統を整理し、全体系を補完する。
しかし、昭和63年12月、鶴山は多くの研究成果を未発表のまま突然に急逝。しかし、その薫陶を受けた多くの後進師範たちによってその意志は継がれ、それぞれに独自の発展を遂げながらも、合気柔術のさらなる探究が現在なお継続されている。