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高松寿嗣 Takamatsu Toshitsugu – 神伝不動流柔体術、戸隠流忍術

明治23年(1890)3月10日神戸市生まれ。誕生から20歳になるまで9人も母親が代わり、その複雑な家庭環境のためか、小さい頃は同級生に「泣きみそ」とあだ名される、いじめられっ子だった。9歳の頃、高松師を軍人にしようと思っていた父は、親類の叔父にあたる戸田眞龍軒という武芸者に頼み戸田師の道場へ通わせ、高松師は厳しい稽古を課せられることになった。高松師はこの戸田眞龍軒から後に神伝不動流柔体術・虎倒流唐手、そして戸隠流忍術の印可を授かり、ついにはその他の極意も継ぐことになる。

道場へ通う度に、その実力は飛躍的に上がり、道場では「小天狗」の異名で呼ばれるようになり、若干13歳で神伝不動流柔体術の免許皆伝の腕前となった。60人からの不良少年らに襲われて、そのうちピストル・日本刀を持って斬りかかってきた者も含めておよそ数十人を投げ飛ばし、あとは逃散させ、翌日の新聞に「十三歳の少年柔道の達人、六十人の青年を手玉にとって投げる」と報道された。
同じ頃、高松師は神戸の英学校、漢学校に通うかたわら高木楊心流柔術の水田芳太郎の道場にも通い、わずか数年で免許皆伝を授けられる腕前となった。そして17歳のときに出会った石谷松太郎という老人から九鬼神流と、その他の武技を学んだ。
21歳になって、高松市は家を出て、神戸の摩耶山に向かう。ここに1年間籠り、生米だけを食べる生活をしながら、武術のさらなる修行、研鑽をつづけた。この間に、高松師は修験者の玉置老人と出会い、修験道も学んでいる。
その後、比叡山に得度した後、中国に渡り十年の間放浪。満州の日本民国青年武徳会の会長になるなどしたが、その間、数多くの中国武術家たちとの試合、馬賊との実戦など、あらゆる戦いに百戦百勝、負け知らずだった。中国時代、人呼んで「蒙古の虎」と異名された高松師は、大正8年(1919)30歳の時に帰国し、以後、体術と武器術が一体となった総合武術を後進に指導するも、昭和47年(1972)4月2日に逝去。想像を絶した、武人としての凄まじい生涯を終えた。


写真協力◎「武神館武道」宗家・初見良昭師範





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