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西郷四郎 Saigo Shiro – 日本伝講道館柔道

1866〜1922

講道館四天王の一人として、彼だけが為し得たという必殺技「山嵐」をもって、他流勢力に敢然と立ち向かい、人一倍小柄な体躯ながら大柄な対抗者を次々と屠った柔道の天才児、それが「西郷四郎」であり、その造形は富田常雄の小説『姿三四郎』の主人公、姿三四郎にそのまま投影されている。現在なお、天才的な柔道選手が「○○の三四郎」「女三四郎」との異名を冠せられるように、まさに「柔道の代名詞」ともいえる「三四郎」の原点を作り出した伝説的柔道家こそ、「四郎」に他ならない。

そんな四郎が生まれたのは慶応2年(1866)、会津藩士(会津若松)の志田貞二郎の三男としてだった(三男で「四郎」がつけられたのは、姉がいたため)。そのため、当初の氏名は「志田四郎」。時代の転換点にあって、戊辰の戦乱に巻き込まれた志田家は、一家をあげて近隣の津川(現在の新潟県)へ移住した為、四郎もその地で少年期を過ごしている。明治15年(1882)、青雲の志をもって上京した四郎は、まもなく、東京大学出の新進学士でありながら柔術を志す若き師範、嘉納治五郎の興した講道館へ入門する。この入門は、当初、嘉納の同門である天神真楊流、井上敬太郎道場へ入門していた四郎を見出した嘉納が、井上へ乞うて、移籍させたものとするのが定説となっている。同年に創設された講道館は、嘉納の下宿先である下谷・永昌寺の書院を稽古場とする粗末な道場で、門下生も通いの数人に、住み込みとしては元々、嘉納家の書生であった富田常次郎(旧姓:山田。『姿三四郎』作者、常雄の父)と四郎の二人だけであった。同年に創設された講道館において、若き指導者、嘉納と共に、四郎ら内弟子が研鑽を重ねた日々が、のちの講道館柔道の礎を築く土台を作り上げていった。明治16年には初段を修得。同年末に二段を修得すると、明治18年には三段を飛ばして四段へ昇段する。

一方、明治17年に四郎は、当時、保科近悳を名乗っていた元会津藩家老職の西郷頼母の養子となり、保科四郎に改名。明治21年には、廃家となっていた西郷家を再興し、西郷四郎となる。この間、講道館は警視庁などが主催する他流試合に参戦、四郎は独自の技「山嵐」をもって、他流強豪を次々に下したことで、斯界にその名を轟かせると共に、講道館は著しい躍進を遂げる。

講道館においては重鎮の一人として嘉納に信頼される四郎は、明治22年、嘉納が海外視察で講道館を離れる際にも後事を託されるが、明治23年、嘉納へ宛てた「支那渡航意見書」なる一通を残して、突然出奔してしまう。交流のあった鈴木天眼、宮崎㴞天らと共に、朝鮮半島の「東学党の乱」に関わり、長崎で鈴木の創設した「東洋日の出新聞」の編集に携わる中で、中国の辛亥革命などを取材して、憂国の士として活動する。その傍ら、長崎の地で柔道のほか、水泳や弓道などの指導者としても従事した記録が残る(柔道においては、講道館出奔後、一時、仙台の第二高等学校柔道部師範を勤めた経歴がある)。

晩年は長く神経痛を患ったと伝えられ、療養先の広島県尾道において大正11年(1922)12月23日、病没。その訃報に接した嘉納は、翌大正12年1月14日付けにて、その死を悼んで六段を追贈した。

身長、五尺一寸(約153センチ)、体重、十四貫(約53キロ)という最軽量でありながら、巨漢の強豪をもものともしない強さをみせた四郎の活躍は、まさに柔道が掲げた「小よく大を制する」理念を体現した最初の柔道家であり、没後、その碑に刻まれた「講道館柔道開創の際、予を助けて研究し、投技の蘊奥を究む」という嘉納の言葉には天才の死を悼む哀惜の情が滲む。その想いが伝わるように、小説『姿三四郎』の中で、唯々、柔道に生き抜く三四郎の人生を描かせたのは、一人作者・富田に留まらない、全ての柔道を愛する人々の願いが結実したものだったのではないか、と思えてならない。





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