1913〜1987
日本空手協会初代首席師範。大正2年(1913)、山口県に生まれる。昭和7年(1932)、拓殖大学へ入学。昭和12年に北京大東学舎への留学生となり、現地で終戦を迎える(昭和21年5月に引き揚げ)。昭和23年、関東周辺の松濤館系(船腰義珍門下)大学空手部(研究会)の主立ったOBによって、「日本空手協会」が設立され、その中心的な存在として実務をこなす。昭和32年4月1日、総本部における研修生制度発足、第一期生として金澤弘和(のち国際松濤館館長)などが入会する。同年4月10日、日本空手協会は文部省(当時)認可社団法人格を取得するが、同月26日、最高師範であった船越義珍が逝去する。
昭和33年、前年(昭和32年)10月の日本空手協会主催「第1回全国空手道選手権大会」開催を経て、社団法人(当時)日本空手協会首席師範に就任する。昭和40年、日本空手協会において整理・発展させた空手技術と理論を集大成させた書籍『空手道新教程』を出版。同書は普及版など、装幀を変えながら版を重ねた。そのほか、形解説のマニュアル本や当時、総本部のあった四谷ムービーセンター(発足から昭和40年まで)の協力のもと、空手をPRする映像作品なども制作する一方、在日駐留米軍基地などへ指導員を派遣する等、空手普及の様々な活動を展開する。昭和47年には、東京・恵比寿に自身の空手道場「抱一龕道場」を開設。国内および海外からも多くの空手家が訪れ、空手を学んだ(同道場は現在も存続している。主宰:川和田実)。
昭和50年、世界的には拓大OBであり、協会所属で米国において空手普及に邁進する西山英俊率いるIAKF(国際アマチュア空手連盟。のち、国際伝統空手連盟=ITKFに改称)主催による世界大会が米国において開催される。以後、2年ごとに開催された同大会で、日本空手協会の選手が大いに活躍する。
昭和62年(1987)、74歳で逝去。以後しばらく、首席師範不在の中、協会の分裂騒動などが勃発。平成3年(1991)二代首席師範として杉浦初久二が就任。平成22年には三代首席師範として植木正明が就任し、現在に至る。
空手が競技化を整備する段階において、「武道空手」という明確なビジョンのもと、新しい理論と技術が一体となった空手道の創造に尽力した一代の空手家だった。
※各写真提供は(公社)日本空手協会(『公益社団法人日本空手協會六十五年史』より)。