大正2年(1913)6月16日、朝鮮半島の平壌で生まれる。幼少期、そのあまりの腕白ぶりに「高成寺」という山寺に預けられるが、そこで武道家であった叔父より「十八卦」という武術と借力の鍛錬法を伝授されたという。
14歳で日本へ渡り、京都の平安中学に入学、新聞配達のバイトに精を出すが、通りがかった寺の境内で稽古されていた空手に興味を覚え、手ほどきを受ける。その後、京都第三高等学校へ入学すると共に、武道専門学校(武専)へ入り、さらに空手を本格的に学んでいく(当時、空手は正課ではなかったが、色々な伝手から沖縄の空手家が教えに来ていたという)。この時期、山籠もり鍛錬などを敢行し、心身両面から自らを鍛え上げたという。昭和8年(1933)には、空手修行で培った集中力を活かし、見事、京都大学法学部に合格。武専では若干20歳にして指導的立場になっていた。1943年、30歳の時に大日本武徳会から六段錬士を授与。
終戦後、山梨県甲府へ移り、土木業を営む傍ら、1956年に空手道場修得館を開設。空手道の大同団結を提唱し、1957年、全国に先駆けて山梨県空手道連盟を結成、初代会長に就任する。この年、連盟結成を記念して挙行された第1回空手演武大会には、大山倍達、金城裕、藤本貞治が、翌年開催された第2回大会には金城裕、藤本貞治、山口剛玄、中山正敏、金澤弘和など、のちの空手界をリードしていく著名空手家が集結し演武を披露している。また、この時、中村が披露したのが、のちにその代名詞ともなる「垂木切り」の演武だった。また、この時期、のちに中村門下の筆頭師範となる石山圭(現拳道会会長)や、のちに極真会館第5回全日本優勝、第1回世界大会準優勝となる盧山初雄などが、中村門下となって過酷な修行に明け暮れていた。また、この頃、空手に加え、柔道四段の肩書きを持ち、八光流柔術をも修得している。その後、甲府の修得館は中村が東京へ移転する1968年頃まで活動を続けた。
東京へ居を移した中村は、その後、空手の本質を拳に求め、拳の道を全うする意味において自己の空手道を「拳道」と命名。一層、内弟子養成に務めるが、1983年、古希(70歳)を迎えたことを機に、その薫陶を受けた高弟たちの発案により、拳道普及の母体として「空手道拳道会」を設立、会長に就任する。1987年に大阪、ついで1988年に東京で開催された大演武会によって、その驚異的な技術と深い精神性を世に知らしめた。
1997年、会長職を後継者に委ね、「総師」として拳道会全体の指導にあたる。2001年には米寿(88歳)迎え、若き日に鍛錬を重ねた京都の地で大演武会を開催。これが、公開の場では最後となる演武披露となる。2007年に滋賀県に居を移し、なお精力的に鍛錬を続けたが、2013年1月8日、肺炎のため、満99歳で永眠。その数奇な空手人生を閉じると共に、永遠なる伝説を残した。