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許田重発 Kyoda Juhatsu
東恩流

那覇手中興の祖といわれる東恩納寛量の高弟の一人であり、東恩流の流祖。
1887年2月5日生。15歳の頃から「西の東恩納」こと那覇手の大家・東恩納寛量に師事。それ以前より母の親戚である「東の東恩納」こと東恩納寛裕にも師事している。師範学校を卒業後、教師の道を歩み泊や那覇の尋常小学校に勤務する傍ら唐手の修行を続けた。後に沖縄県立第二中学校(現・那覇高等学校)の唐手部初代師範をつとめた。 1923年頃、許田は「空手研究倶楽部」で宮城長順、摩文仁賢和、本部朝基、呉賢貴などと共に研究。1934年、大日本武徳会沖縄支部の唐手教師嘱託に任命された。1939年6月、大日本武徳会沖縄支部武徳殿開殿式において行われた記念演武会で「スーパーリンペイ」の型を演武。1944年、定年退職後、大分県別府市で働いていた三男・重光のもとに身を寄せ戦禍を逃れる。以後、別府を終の住処とし、東恩納寛量が生前に体系化した空手(唐手)を守り伝えた。
1968年8月31日別府市で死去。享年81。


◎関連記事:月刊秘伝2025年4月号「東恩流の歴史と技法」(前編)
◎関連記事:月刊秘伝2025年5月号「東恩流の歴史と技法」(中編)

那覇手中興の祖といわれる東恩納寛量の高弟の一人であり、東恩流の流祖。
1887年2月5日生。15歳の頃から「西の東恩納」こと那覇手の大家・東恩納寛量に師事。それ以前より母の親戚である「東の東恩納」こと東恩納寛裕にも師事している。師範学校を卒業後、教師の道を歩み泊や那覇の尋常小学校に勤務する傍ら唐手の修行を続けた。後に沖縄県立第二中学校(現・那覇高等学校)の唐手部初代師範をつとめた。 1923年頃、許田は「空手研究倶楽部」で宮城長順、摩文仁賢和、本部朝基、呉賢貴などと共に研究。1934年、大日本武徳会沖縄支部の唐手教師嘱託に任命された。1939年6月、大日本武徳会沖縄支部武徳殿開殿式において行われた記念演武会で「スーパーリンペイ」の型を演武。1944年、定年退職後、大分県別府市で働いていた三男・重光のもとに身を寄せ戦禍を逃れる。以後、別府を終の住処とし、東恩納寛量が生前に体系化した空手(唐手)を守り伝えた。
1968年8月31日別府市で死去。享年81。


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