1894(明治27)〜1966(昭和41)
「鹿島神流」第十八代宗家師範。福島県いわき市湯本町で生まれた國井は八歳にして、父・國井英三、祖父・國井新作より家伝の鹿島神流をてほどきされたと伝えられている。鹿島神流は茨城県鹿島の人、松本備前守政元を流祖に仰ぐ、剣術を主体とした総合武術である。「霊気之法」と称する独特な鍛練法を伝える体術(柔術)のほか、棒術、槍術、居合術などが伝えられているが、國井は多くの他流試合を実践し、その晩年まで道場には「他流試合、勝手たるべし」として剣術はもちろん、空手、ボクシングなどの異種試合をも受け入れ、これをことごとく撃退したといわれる。その実力から当時「今武蔵」の異名を取り、古流武術界はもちろん、現代武道においても「枠に囚われない強さを求める」人々の間で、隠然たる影響力を持っていた。19歳のとき、修行の総仕上げとして祖父の弟弟子となる新陰流免許皆伝という佐々木政之進翁に預けられ過酷な修行を課せられるが、自身、長じてからも他流研究を怠らず、特に馬庭念流(同流は國井家鹿島神流初代、國井景継も学んだと伝えられる)を深く研究したことで知られている。一方で神道学者の今泉定助に国学を学び、昭和の風雲急を告げる時代から国事に奔走し、戦後、次々とスポーツ化を図る諸武道を激しい口調で叱咤したその姿は、自他ともに認める「昭和の剣豪」として常に、今に通用する実力を備えた武道を模索していたことが窺い知れる。その迫力ある容貌体格から剛力に長けた人というイメージで見られがちだが、晩年、武の本質を「包容同化の精神」と説いたところに、國井が到達した悟境の深さを感じることができる。