1883(明治16)〜 1965(昭和40)
柔道家。創設当初より現在まで綺羅星のごとく多彩な個性溢れる豪傑、名人を輩出してきた講道館柔道にあって、最高段位十段を授与された数名の中でも一際、異色の存在として記憶されるのが、三船久蔵であろう。”柔道家”といえば恰幅の良い巨漢がイメージされるところだが、若年より小柄だった三船は巨漢ひしめく講道館にあって1903(明治36)年の入門後、早くも頭角をあらわしている。そもそも1883年、岩手県久慈町に生まれた三船は14歳で単身、兄を頼って故郷を離れた仙台二中時代、強さへの憧れから独学で柔道を始めている。中学卒業後、上京して19歳で講道館入門。兄事した横山作次郎に可愛がられながら、初段から二段までわずか二ヶ月という異例のスピード昇段を果たし、その後も年ごとに昇段し、五段の頃には各大学などの柔道師範を勤め、自宅でも多くの内弟子を育てた。1923(大正12)年に七段となると、のちの講道館初の十段、山下義韶を筆頭とする四人の指南役に選ばれ、名実共に講道館柔道の顔役となっている。そこには三船がこなした数々の名勝負があり、横山門下の”鬼”の称号を受け継いだ徳三宝や寝技名人として知られた小田常胤との一戦など数々のエピソードに彩られている。特に1930(昭和5)年に第一回全日本柔道選士権大会で特別模範試合として組まれた先輩、佐村嘉一郎(当時七段。のち十段)との一戦で、それまで一部に疑問視されていた三船工夫の「空気投げ(隅落)」を実戦の場で見事に成功させた。白髪となった晩年まで若者相手の乱取りでもフワフワと舞うかのごとき体捌きで翻弄するその姿は、まさに「名人」と呼ぶに相応しい貫禄をみせるものだった。その姿は記録映画「神技 三船久蔵」として今に伝えられている。1945(昭和20)年、十段授与。様々な殊勲を受けつつ、1965年、82歳でこの世を去った。現在、岩手県の郷里では「三船久蔵記念館」が運営されている。