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芦原 英幸 Ashihara Hideyuki – 芦原空手

 

1944〜1995

昭和19年(1944)12月4日、広島県佐伯郡能美町(現・江田島市)に生まれた芦原英幸は、小学生から中学生にかけて剣道を学んだ、どこにでもいる活発な少年として幼少期を過ごす。中学卒業後、就職のため上京。昭和36年(1961)、大山倍達が主宰する池袋の大山道場(のちの極真会館)に入門、空手を本格的に学ぶ。この間、数々のストリートファイトを経験し、「ケンカ十段」の異名で呼ばれ、生涯のキャッチフレーズとなる。昭和39年(1964)、改めて国際空手道連盟極真会館となると、本部指導員に任命された芦原だったが、明るみにでた暴力事件が元で師・大山より無期禁足処分を言い渡される。その後、約二ヶ月間に渡って廃品回収業に身をやつした芦原は、許されて極真会館へ復帰するが、すぐに四国へ指導員として派遣されることとなる。これは大山の知人である毛利松平(政治家)の依頼によるものだったが、愛媛県野村町で指導にあたった芦原は、その後も四国に足をとどめ、本格的に極真空手の普及に邁進することとなる。

昭和45年(1970)には愛媛県・八幡浜に自前の道場を構え、「極真会館芦原道場」として広く関西圏に勢力を拡大。また当時、梶原一騎原作によって大山倍達と極真空手を描いて大ヒットした劇画『空手バカ一代』(画:影丸譲也)で準主役的活躍が描かれたこともあり、一躍、全国的に注目を集める存在となる。昭和54年(1979)には国鉄(当時)松山駅前に、池袋の本部道場に優るとも劣らない白亜の「芦原道場本部」を開設する。しかし、そうした著しい勢力拡大が極真会館内部で問題視され、昭和55年(1980)9月、極真会館より永久除名処分が下され、その原点であった極真空手を離れることとなる。

同年、新国際空手道連盟芦原会館を設立。独自に開眼、体系づけた「サバキ」を提唱し、大会全盛の時期にもひたすら実践的技術と「誰にでもできる空手」の構築に心血を注ぎ、国内から広く海外へ芦原空手を普及する。この間、自伝書二巻に、技術書三冊を上梓する。ところが平成4年(1992)、突然、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と呼ばれる難病を発症。徐々に体の自由を奪われながらも、芦原空手の更なる展開に心を砕くが、2年以上の闘病の末、平成7年(1995)4月24日、後事を子息(当時、十代)の英典に託して、息を引き取る。

現在、芦原会館は芦原英典二代目館長のもと、芦原英幸が遺した芦原空手の更なる発展に尽力すると共に、その薫陶を受け、のちに独立した多くの団体が「サバキ」の技術を元として自らの思想、工夫を加えながら、それぞれに、それぞれの形をもって、芦原英幸の遺産を後進へ伝えている。

※現在(2018年9月)、「月刊秘伝」誌上にて、芦原英幸の薫陶を受けた作家、松宮康生による「What is SABAKI─サバキとは何か?─」が好評連載中。画像提供:松宮康生。イラスト:ⓒ影丸譲也

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