1880~1939
明治13年、宮城県河北町(現・石巻市)に生まれる(旧姓:佐藤。20歳で石巻の阿波家に入り婿となる)。若年時には地元の古流柔術(天神明進流)なども学んだが、21歳となり、石巻の旧仙台藩士・木村辰五郎時隆に師事して、堂射系の日置流雪荷派の弓術を学ぶ。その後、免許皆伝を受け、23歳で自宅近くに道場を開設、30歳で仙台に出て道場を開いた。この頃、木村に代わって仙台の旧制第二高等学校の弓道師範を勤め、学生たちへ的中を重視した弓を指導していた。
1913年、日置流尾州竹林派(のち、本多流を創流)の本多利實に師事する。その後、日置流の斜面打ち起こしから、本多の支持する正面打ち起こしの射法となる。1917年、大日本武徳会演武大会において、近的二射、遠的五射、金的を全皆中し、特選一等、日本一の栄誉を得る。この翌年、武徳会から弓道教士の称号を授与される。
その後、自身の弓をさらに深め、「人間学を修める業としての弓」を追求。41歳の時に天啓のような一射を体験し、「一射絶命」「射裡見性」を唱え、「弓による宇宙と自己の合一」という禅の精神を根幹とする弓道団体「大射道教」を1927年に開いた。また同年、大日本武徳会から弓道範士を授与され、武道専門学校の教授就任を打診されるが、これを謝絶。自身の信じる弓の道を極める道をおし進んだ。
特に1924~1929年に来日したドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルへの指導において、暗闇の矢場で放った2本の矢が、的中した一本目を二つに割いて二本目が的中していたことで、外国人である彼へ弓道の深遠さを悟らせた逸話は有名。ヘリゲルは後に、この体験を自著『弓と禅』に書き残し、弓道が持つ哲学的な広がりを海外へと紹介した。
多くの支持者を得て「弓聖」とまで言われたが、生涯、仙台を離れることなく昭和14年59歳で病没。「心で射る弓」を体現し、弓禅一如の境地を顕現して見せたその求道の弓は、今なお弓道の可能性を後進へ示し続けている。