1904(明治37年)〜2004(平成16年)
琉球王家秘伝本部御殿手第十二代宗家。長らく秘匿されていた琉球王家秘伝の技術を「本部御殿手」として初公開し、その存在を知らしめると共に、自身、90歳の半ばを過ぎても卓越した技倆をみせて、一代の達人と称された上原清吉は、明治37年3月24日、沖縄県島尻郡小禄村にて、父・上原蒲戸のもと7人兄弟(うち、女性2名)の五男として生まれた。12歳となって、琉球王族の血筋であり、当時「本部の足(ひさ)」「本部御殿の蹴(きりち)り」などと称され、その技倆において高く評価されていた本部朝勇に入門。朝勇は、かの”実戦名人”本部朝基の実兄である。彼に唐手を学ぶが、他の先輩たちとは別に、一人、上原は朝勇が第十一代宗家として伝えていた「御主加那志前(琉球国王)の武芸(後の『本部御殿手』)」を学んだ。それは、朝勇の子息・朝茂への中継役としての伝授であったという。
大正12年(1924)、19歳となった上原は、首里城南殿において朝勇の指示により、喜屋武朝徳などの並み居る空手大家の前で「ウフクン」と呼ぶ形を演武している。翌大正13年にも那覇市大正劇場にて「ウフクン」を演武しているが、当時、朝勇の命により、御殿の手はできるだけ公にしないように注意していたという。同年、和歌山県に移住していた本部朝茂の元を訪れた上原は、約6ヶ月滞在して朝勇から受け継いだ技術を朝茂へ伝えている。しかし、その後、朝茂は大阪空襲にて没している。
大正15年(=昭和元年)12月24日、フィリピンへ移住することとなった上原に、師・朝勇は「御殿の手(御主加那志前の技)」を継承した証として、自身が詠んだ教訓歌と遺歌を編んだ巻物二巻を授けた。朝勇はこの半年後、昭和2年(1927)に没している。上原はその翌昭和3年3月にフィリピン群島ミンダナオ島ダバオにて武道場を開設。同年、昭和天皇御大典記念演武大会において沖縄代表三名のうちの一人として演武を披露している。この武道場は昭和16年11月まで続いが、同年12月、太平洋戦争開戦にともない、フィリピンにて軍属として徴用される。ジャングルの中、何度も死地を切り抜けるうち、肌身離さず携帯していた師の巻物を焼失してしまう。
昭和22年3月、終戦後、横須賀、福岡を経て、沖縄へ帰郷。昭和26年11月3日、沖縄県宜野湾市において武道場を開設する。当時47歳の上原の元へ、フィリピンでの噂を聞きつけた人々が集まり、上原は朝勇から学んだ基礎的な体術をもとに自ら工夫を加えた空手を教え始める。昭和36年3月5日、教えていた武術を、師の名を冠して「本部流」と称していた上原は、本部流古武術協会を設立、会長に就任する。この時期、武術家としての幅を拡げる意味から柔道など各種武道を研鑽した上原は、昭和37年、那覇市で開催された八光流柔術宗家直伝会にも参加、3月31日、同流師範資格を修得している。
昭和39年4月8日、全沖縄空手古武道連合会より最高範士の称号を受ける。同年11月3日、琉球政府文化財保護委員会より古武道の演技者表彰を受ける。昭和40年4月20日、全沖縄空手古武道連合会理事長、および同・称号段位実技審査委員長就任(共に昭和57年まで)。昭和45年、師・朝勇より受け継いだ琉球王家秘伝武術を「本部御殿手」と命名。本部御殿手古武術協会を設立し、本部御殿手の技術そのものを初めて一般公開することを決意する。
以後、様々な要職を歴任しつつ、積極的に本部御殿手の普及を図る一方、沖縄の古典舞踊と御殿手との関連性など、研究の幅を拡げていく。昭和59年より加盟した日本古武道協会では96歳に至るまで自ら演武に立ち、最高齢演武者として賞賛される。平成15年(2003)8月17日、白寿(99歳)を期に、昭和51年の出会いより「再び本部家の血筋へ御殿手を伝える」ことを願い次期宗家として教導されてきた本部朝基の子息・朝正に、琉球王家秘伝本部御殿手第十四代宗家(第十三代は朝茂)を託す。
翌平成16年4月3日午前7時15分、老衰のため宜野湾市内の病院にて永眠。享年、満100歳。近代において最高齢となる長寿を全うされた百年一代の武の達人として、その名を遺した。