1911(明治44)〜1976(昭和51)
「野口整体」創始者。日本の療術界ではカリスマ的な伝説を数々遺した天才型の療術家。その才能は十代前半で開花している。東京・下谷で職人の子として生まれた野口少年は1923(大正12)年、未曾有の関東大震災の中、弱冠12歳にして周囲で被災した人々に手かざし治療を施したことから、その後の治療家としての道を踏み出すこととなったという。17歳で「自然健康保持会」を設立し、入谷において道場を開き、門人を育成したと伝えられる。1943(昭和18)年には「整体操法制定委員会」設立に携わり、多様な手技療法を精査して新たに整体操法をまとめ、手技療法の法制化を推し進めた。戦後、1947年には「整体操法協会」を設立し、指導者養成に力を入れることで、療術界きってのカリスマとして中心的役割を担う。なお、これらの活動を通じて「整体」という言葉と概念を、広く一般に流布した。1956年に「社団法人整体協会」を創立する頃には、治療としての「愉気」のほか、人間を12のパターンに分類する「体癖論」や「活元運動」、あるいは「潜在意識教育」といった独自の概念と方法論で身体にアプローチすることを提唱。その独自性から現在、特に「野口整体」と呼称されて他の整体とは区別されている。人間の未知なる分野と可能性を開拓した点で、その業績は単に健康法の枠を越えた影響力を後世に残している。現在、野口の跡をたどる者は整体協会にとどまらず、子息である野口裕之は身体教育研究所所長としてやはり独自の探究を続けるほか、晩年の野口に学んだ岡島瑞徳(2008年逝去)はヨガと野口整体を融合し独自の「中心感覚」を提唱、野口の孫弟子にあたる治療家にして武道家の河野智聖は体癖論をベースとした「動体学」などをその基本的な身体操法に置いている。また、整体師としても活躍する合気道家の三枝龍生は活元運動などを取り入れた「御互道」を発表している。そのほか、野口の遺した影響力は今なお衰えるところをしらない。