1584?〜1645
※我が国剣術史上、最も有名な剣豪として知られる。それだけにその伝記は諸説入り乱れており、確定的な事柄は数える程しか無いとも。ここでは、細川家伝統兵法二天一流伝承者でもある、武蔵研究者のお一人である宮田和宏先生が、1990年「秘伝古流武術」第4号で発表された「細川家伝統兵法二天一流の世界 流祖・武蔵とその道統」を底本として、その生涯を記す。
幼少の頃より、父(養父とも)であり、十手(江戸期の十手とは異なる)の達人として知られた当(當)理流の新免無二之助一真(一説に「無二斎」)に学び、13歳を皮切りに29歳に至るまで60余度の真剣勝負を重ねて、一度も敗れなかったといわれる。
20代前半にて既に「円(圓)明一流(円明流)」と称する一流を建て、慶長十年(1605)には兵法書としての処女作『兵法鏡』を著す。30歳を過ぎた頃より、それまでの実戦経験を振り返り、ただ勝ちを制することに留まらず、兵法の理をもって自ずから勝つ道を究めるため創意工夫を重ね、父の当理流十手を小太刀に置き換えた(あるいは独創との説あり)二刀操法を完成するに及び、寛永年間(1624〜1644)に「二刀一流」と称する。また、小太刀を投げ放つ、手裏剣術の名手としてもその名を残している。
寛永十七年(1640)、武蔵57歳にして熊本藩主・細川越中守忠利の招きに応じて、当地で兵法指導を手掛けると共に、本格的な兵法理論の構築に着手。この頃より「兵法二天一流」を称するようになる(但し、二刀一流は廃さず、狭義における流名〔小の兵法としての剣術〕として二刀一流を用いたものとみられる)。翌寛永十八年(1641)には『五方之太刀道序』、次いで『兵法三十五箇条』を細川忠利へ伝授する。しかし、その翌年、最大の理解者たる細川忠利が急逝。寛永二十年(1643)十月、失意の武蔵は霊巌洞に籠もり、生涯の集大成たる『五輪書』執筆に入る。
正保二年(1645)五月、死期を悟った武蔵は主立った弟子へ『五方之太刀道序』『兵法三十五箇条』、そして完成した『五輪書』をそれぞれ相伝し、同月十九日、62歳(一説に64歳)の生涯を閉じた。現在、その著作『五輪書』は、当時の兵法・剣術の実相を伝えると共に、兵法全般の理を語るものとして、武道・武術のみならず諸事万端に応用可能な指南書として、国内外を問わず多くの人々に愛読されている。
※なお、メイン画像は「月刊秘伝」2018年9月号特集「武道・武術×漫画キャラ 最強の条件」にて、漫画家山口貴由先生に書き下ろしていただいた宮本武蔵。