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平井 稔 Hirai Minoru – 合気道 日本光輪会 道場光輪洞

1903〜1998
明治36年3月、岡山県浅口郡西阿知(現・倉敷市西阿知町)の岡家次男として生まれる。「平井」姓は母方のもので後に同家を受け継ぐこととなる稔少年は、元は毛利家の武将の血を引く先祖の雄壮な逸話を幼少より聞かされて育った。そんなことから、後に実践した「武を以て、国に報ずる」という根元的な指針が、彼のなかに形成されていったようだ。
大正3年(1914)、平井家の祖父から東軍流剣術の手ほどきを受ける。ただ、後の「体捌き」(後述)の創出に大きく関与したのは、大正7年(1918)より通い出した、当時、当地における剣術家として著名であった奥村左源太、寅吉親子に学んだ奥村二刀流と、同時期に交流をもった佐分利流槍術であるとは、生前、よく話していたといわれる。このほか、やはり当地で盛んであった竹内流腰廻や起倒流柔術、力信流などとの交流で、多角的な武の研鑽を重ねた一方、独学で陽明学や国学などを学び、その基本思想を形成していった。そんな中、大正13年(1924)には岡山県明地峠(あけちたわ)において剣と柔の一人稽古を重ねる内に、自然心としての柔(やわら)への思いがそのまま武術に顕現し、天地自然の理である『円転無窮』『円和一元』を武術的に表現した、のちの「体捌き」の原型を創出。その後、昭和十年代前半まで木刀片手に岡山県内各地を巡り、武者修行で腕を磨いた。
昭和13年(1938)3月、岡山市に道場「恒河洞」を創設。単に武術の修練場というにとどまらず、兵法と処世の道との関連性をといた処世実学としての”柔”を提唱し、自らを「兵法家」と位置づけた。翌年、岡山を訪れていた植芝盛平と会見、数回の交流を経て、請われて昭和17年(1942)頃より当時東京で教授をしていた植芝の皇武館道場に所属し、「総務」と呼ばれる役職をも務めた。
一方、同年10月、明治28年(1895)4月の発足より全国的な武道統括組織として活動する大日本武徳会において、剣道・柔道に組み入れられない綜合武道部門について検討・討議がなされ、招聘を受けた平井は内部調整を行い「合気道」部門を新設することに関わる。そのほか、同会の柔道達士であった平井は同柔道部幹事や各種武道練達士称号審査会委員の嘱託を受けている。また同時期、陸軍憲兵学校の教官を務め、『陸軍憲兵学校体術教範(『憲兵体術教育規定(案)』)』の作成に関わっている。同書には平井監修による「体捌き」七本(袈裟斬、前臂斬、面打、四方捌、入身、突上、後捌)が図版入りで解説されている。なお、大日本武徳会は終戦後、昭和21年(1946)10月に占領軍司令部の意向を汲んで解散しているが、その直前の昭和21年9月5日に平井へ合気道範士の称号を贈っている。このほか、戦中は国事のために奔走した一面も持ち、当時を記録したドキュメントなどに、関連した記述を見ることができる。
終戦直後の内閣嘱託を受けるが、戦後の大日本武徳会の解体、GHQによる公職追放などから、静岡市に道場「光輪洞」を創設。次いで昭和22年(1947)11月には岡山の恒河洞をも「光輪洞」に改め、一時、社会の表舞台から退いている。しかし、昭和23年(1948)6月、和道流空手の大塚博紀やボクシングのピストン堀口らと共に全日本警察官逮捕術制定専門委員となり、これを機に公職追放を解除される。昭和28年(1953)9月には東京に道場「光輪洞」を開設、翌昭和29年(1954)1月に東京、静岡、岡山の三つの道場を統合して「大日本光輪洞(のち、「日本光輪会」に改称)」を結成した。
以来、旧大日本武徳会合気道の理念、体系を継承し、その精髄を形にした「体捌き」(先の七本、あるいは後に整理された百八十度転体、三百六十度転回、前臂斬り、入身転体、礒返し、四方捌き、面摺り、後捌きの八本)を根幹に、そこに生じる「腰の廻り」を極意として、あらゆる武道(徒手、武器)に展開可能な「母体武道」を提唱、精力的に指導した。毎年11月には明治神宮内にて奉納演武大会を催し、長年にわたってその妙技が一般に公開された。
平成10年(1998)10月16日、戦後を主に過ごした静岡市にて永眠。享年96歳。日本光輪会は長男・智大を経て、現在は孫の平井斉洞主を中心に、その理念を継承している。
参考文献:「月刊秘伝」2001年4月号特集「巨人平井稔と光輪洞合気道」(BABジャパン)、「季刊合気ニュース」1994年春号(通巻100号)「平井稔洞主会見」(合気ニュース)、「明治神宮例大祭奉祝演武」パンフレット(日本光輪会)、成田新十郎『円和の合氣道』(BABジャパン)





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