三大源流、最後の流儀とは!?
前回(第三回)言及した柳生一族の新陰流と共に、将軍徳川家指南役として採用された流儀が一刀流、一般に「小野派一刀流」と呼称される流派である。一刀流は伊藤(伊東)一刀斎(1560頃〜1653)によって創始された流儀だが、その弟子である御子神(上)典膳、のちの小野次郎右衛門忠明(生年不詳〜1628)が師の推挙を得て(異説あり)文禄二年(1593)、徳川家へ召し抱えられることとなった。その後、柳生一門と共に将軍家指南役となる小野家だが、政治にまで大きな影響力を伸ばす柳生に比べ、一剣術指南役に徹したことから歴史の表舞台での活躍は劣るものの、粛々と道統を継承。その種からは多くの幹や枝葉が栄え、江戸後期における竹刀剣術稽古(撃剣)との結びつきから、その流れは現代剣道にまで大きく影響することとなる。
このように日本剣術史にあって大潮流を形成する一刀流系だが、何故か日本剣術の三大源流からは外されている。それはひとえに年代的なところからくるものと思われるが、すなわち一刀流の源流と呼べる流儀が存在している。それが「中条流」である。中条流は中条兵庫頭長秀(生年不詳〜1384年頃)を祖とするが、中条家もまた、もともと刀槍でならした家柄で、家伝の兵法を特に「平法」として伝えていたという。これを父より学んだ長秀はちょうど南北朝時代、念流の影響を受けて工夫研鑽、新たに中条流を大成した(念流の祖、慈音の高弟十四哲の一人に数えられた、とは第一回に既出の通り)。長秀は後年、父の跡を継いで三河(現在の愛知県東部)の挙母城主となるが(1354)、その後、歌人としても知られるようになった。しかし、中条家は長秀の孫の代となって室町幕府の不興を買い、曾孫ともども廃絶の憂き目をみることとなる。
このため中条流の道統は長秀の門人であった甲斐豊前守広景へと伝えられるが、甲斐は越前(現在の福井県周辺)の管領(室町幕府における将軍に次ぐ最高役職)・斯波家に仕えていたことから、中条流は同地に基盤を置くこととなる。ここで登場するのが、この剣流を「剣術源流」に押し上げる富田一族である。甲斐によって伝えられた中条流刀槍の術はその門人、大橋勘解由左衛門高能を経て、越前国宇坂庄に居住する富田九郎左衛門長家(生年不詳〜1507)へとその奥秘が授けられた。生涯浪人であったと伝えられる長家だが、その子孫たちには剣において天与の才があった。長家の子、治部左衛門景家をはじめ、その長子である五郎左衛門勢源(生没年不詳)や、次子の治部左衛門景政(生年不詳〜1593)、景政の養子(元は景政と同じく朝倉家に仕えていた山崎弥三兵衛景邦の子。山崎家も中条流をよくした家柄)となった後の「名人越後」六左衛門重政(1564〜1625)などは中条流を越前一帯から全国へと弘め、そこから多くの支流を生み出している。そのため、世間一般からも押しも押されぬ中条流宗家と認められ、自らも一貫して正式名称は中条流を名乗りながらも、いつしか一般的には彼ら一門を称して「富田(とだ)流」と呼ぶようになっていった。
中条流・富田一門の興隆
この富田流において、最も知られた武芸者が先述の富田勢源であるだろう。ただ、勢源は剣達者との名声とは裏腹に後年、眼病を患い、剃髪して仏門に入り「勢源(清元・清源)入道」と号して、弟・治部左衛門景政に家督を譲っている。この時、勢源は宗家(弟)に遠慮して「富田」姓を「戸田」の文字に替えたとも伝えられる。勢源の逸話として永禄三年(1560)美濃の斎藤義龍の懇望により某剣士と立ち合うこととなり、革を巻いた一尺二寸(約36センチ)の割木を得物としてこれを滅多打ちにして勝利したと伝えられる。中条流そのものは技法数33と伝えられその内容は定かではないが、勢源のこの逸話も相俟ったものか、小太刀を基本とする技法体系であったと伝えられる(実際、同流太刀筋として「小太刀心在」という技法解説なども伝えられている)。謎に包まれつつも、富田流と縁深いとされる巌流佐々木小次郎(一説に富田流一門の鐘捲自斎の弟子とされる)も富田流の打太刀として大太刀をよくしたところから、のちに独自に巌流を創始したとする説も唱える向きがある。
現在、中条流、富田流ともにその本流たる系統の技法を実際に見ることは叶わないが、その小太刀操法の体系をよく受け継ぐ流派に、東北は弘前藩(現在の青森県弘前市)に伝えられた當田(とうだ)流剣術(流祖・當田半兵衛吉正)がある。また、この他にも勢源を流祖、あるいは流祖の学んだ人物(流系)としてあげる流派は数多く、例えば、現在は薙刀術で知られる戸田派武甲流や、作家の加来耕三氏がその宗家筋の子孫であることで知られる東軍流(流祖・川崎鑰之助時盛)などが知られている。
勢源の弟、景政の門人ではやはり東北地方で隆盛した心極流(流祖・長谷川宗善)があり、重政(戸田越後守)を遠祖に仰ぐ流派には上州(現在の群馬県周辺)の気楽流柔術(流祖・飯塚臥龍斎興義〔異説あり〕)などがある。景政ははじめ越前・朝倉家に仕えたが、のち加賀(現在の能登半島周辺地域)の前田利家に仕え、天正十一年(1583)嫡子が戦死したため、翌年、旧知の山崎家より養子として六左衛門重政を迎えた。重政はその後、前田家において武功をたて慶長元年(1596)には従七位下下野守に叙任、のちには越後守となり一万石を越える大身となる。重政もまた小太刀の技に優れ、「名人越後」と称えられるが、その業前は晩年においても衰えなかったと伝えられる。その家督と剣統は次男の越後守重康に伝えられたというが、現在、その道統の存在は寡聞にして知られていない。
世に「富田三家」と呼ばれるのがこの名人越後と、先の心極流・長谷川宗善、そして外他(とだ)流、あるいは鐘捲流とも称された鐘捲自斎(生没年不詳)である。この鐘捲については一刀流流祖、伊藤一刀斎の師として知られる他、その来歴、正確な流系(師も勢源説、景政説などがあり特定されていない)ともに不明な点が多い。あるいは佐々木小次郎の師ともされ、自斎が佐々木へ宛てた免状について『武芸流派大事典』では言及されている。なお、現在、岡山県においてその流れを汲む鐘捲流抜刀術があり、独特の足捌きと一直線に踏み込んでいく突き技重視の技法で構成され、居合抜刀術主体の流儀には珍しい「寝業(寝ている所を襲われた際の対処技法)」を有する独特の体系を伝えている。同流を伝えた中村家はもともと出羽国(現在の山形県)米沢より伊達政宗の要請で陸奥国(現在の東北太平洋岸周辺)に移り住み、同流を代々伝えていったという(第18回日本古武道演武大会パンフレットより)。
いずれにせよ、富田一門の剣流は終焉を迎えた戦国期から徐々に新たな時代へと移り変わろうとする江戸初期、剣術における新たな潮流を押し広げる役割の一端を確実に担ったのである。
(以下、次回へつづく)
参考文献:『日本伝承武芸流派読本』(新人物往来社)、『歴史と旅』1983年11月号、『歴史読本』1993年11月号『日本の古武道』(横瀬知行著・日本武道館)、そのほか過去のBABジャパン「月刊秘伝(「秘伝古流武術」含む)」記事