月刊秘伝2024年12月号
■特集 力を0化する!!
武術が到達した“柔の極致”
化勁
序章『化勁とは何か』
第1章『化勁の実戦用法』 宮平保(天行健中国武術館)
第2章『合気と化勁を繋ぐ術技』 高瀬道雄×臼井真琴×有満庄司
第3章『推手で磨く化勁の理』 日本武術太極拳連盟
第4章『化勁を錬る一人稽古』 遠藤靖彦(太我会)
■巻頭グラビア
中達也「形稽古の極意指南!」
佐久間錦二「新始動! 佐川合気実験室」
ベンジャミン ……
前回(第二回)紹介した新陰流、上泉伊勢守の高弟の中で「一国一人(唯授一人)」といわれる印可皆伝を受けたのが、柳生石舟斎宗厳(1529〜1606)である。宗厳もまた、上泉同様、大和(現在の奈良県)の小柳生庄を治める戦国の小豪族の家に生まれた。柳生氏は、宗厳の生まれた時にはすでに武芸において名高い家柄であり、宗厳も幼少時より武芸に励み、特に新当流において五畿内随一の兵法者という名声を得ていた。そんな折、武芸者として知られた上泉が当地を訪れ、会見することとなる(上泉と宗厳の初見は伊勢の北畠具教の邸ともいわれる)。永禄六年(1563)のことである。この会見で宗厳は三日間にわたり仕相(試合)を所望したと伝えられるが、なすすべなく完敗。上泉の技術と剣理に心酔し、柳生の庄への滞留を願い出て、一族をあげて新陰流の指導を仰いだ。約半年間、柳生一族へ指導した上泉が再び京を目指して旅立った際、宗厳へ課したのが「無刀で太刀に応ずる=無刀取り」の術・理の工夫。この課題を、再び同地を訪れた上泉に示した宗厳は永禄九年(1566)、37歳にして上泉より四巻の目録を授けられ新陰流第二世を印可された。
同じ城持ちである師匠の上泉はすでに一兵法者として身軽になっていたが、宗厳はその後も兵法者であると同時に、一族の命運を左右する統率者として目まぐるしく変転する戦国の世を渡っていかなければならなかった。特に都に近い大和の地にあって領地、領民を守るためには、覇権を争う様々な勢力に加担しなければならない。そんな渦中にあって、共に戦へ出た長男、新次郎厳勝は重傷を受け、生涯、牢人として柳生の庄に引き籠もることとなってしまう。これは宗厳にとっても痛恨事であったようだ。天正元年(1573)、織田信長による将軍・足利義昭の追放、室町幕府が完全に亡ぶに及び、45歳にして柳生庄への隠遁を決意した宗厳は以後、同地で新陰流兵法のさらなる研鑽工夫に没頭する。その後、信長が倒れ、豊臣秀吉が天下をとった文禄二年(1593)、宗厳は『兵法百首』を完成、この頃には「石舟斎」を名乗るようになる。翌文禄三年、徳川家康の要請に従い、京都において家康に自らの兵法を開示した。このとき披露された「無刀取り」を自ら体験した家康は、その場で神文誓詞を書いて石舟斎へ入門、石舟斎の出仕を請うが、これを老齢を理由に辞した石舟斎は傍らに帯同した五男・又右衛門を自分の代わりとして推挙する。それが、のちの「江戸柳生」総帥、柳生但馬守宗矩(1571〜1646)である。
兵法指南として徳川家に仕えた宗矩は慶長五年(1600)の関ヶ原を皮切りに大阪冬の陣・夏の陣と戦功を上げ、天下を平らげた家康によって二代将軍とされた徳川秀忠の兵法師範、その息子である家光の代にはさらに惣目付(寛永九年1632)、その四年後には所領一万石を越えて、大名に列せられるまでに出世することとなる。一方、石舟斎は柳生の郷で指導を続けた。その薫陶を受けた者には、のちの小栗流の小栗仁右衛門(異説あり)や、良移心頭(当)流の福野七郎右衛門など、「和術」すなわち柔術を主体とする流祖がおり、特に福野の流れは後に起倒流を生み出している。この流儀が後世、嘉納治五郎に学ばれたところから、近代柔道の幕開けへとつながることは特筆するべきだろう。
数多の柔術流儀の中でも、日本武術においては異質なほどに「気」の運用に重きを置いた独特の術理体系を構築した同流は、後述するように、兵法の「術・理」において、ことのほか深い洞察を試みる柳生系新陰流の特色と、同質のものを思わせるところがある。
そんな石舟斎が自らの道統を正式に伝えて「新陰流第三世」としたのが、長男厳勝の次男で、幼少時より手元に置いて薫育した柳生兵助、のちの柳生兵庫助利厳(1579〜1650)である。24歳まで石舟斎の膝下に置かれた兵庫助は、一時、加藤清正に仕える(慶長八年1603)が直ぐに辞して、全国武者修行の旅に出る。しかし慶長十年(1605)、兵庫助(当時は「伊予守長厳」と名乗っている)を呼び戻した石舟斎は唯授一人の印可を与え、新陰流正統第三世を相伝する。石舟斎はこの明くる年に77歳の生涯を閉じることとなる。その後も修行三昧に明け暮れた兵庫助は36歳となる元和元年(1615)、尾張藩主・徳川義直の兵法師範に迎えられ、ここに「尾張柳生」が始まる。
天下の将軍家兵法師範となった柳生宗矩は、兵法(剣術)を単に闘争の技術に留まらせず、そこに普遍的な術・理を探求し、その成果を寛永九年(1632)、『兵法家伝書』にまとめている。これは宗矩の絶頂期といえる三代将軍家光の時代となるが、そこには同じく家光の政治顧問的役割を担った高僧、沢庵宗彭の影響も多大なものとされている。
沢庵の著した『不動智神妙録』や『太阿記』といった書物は、禅宗の教えと兵法剣術の理との共通点から、諸事万端へ通じる理合を説くものと言え、『兵法家伝書』は兵法者からの視点をもって禅の哲理で兵法の妙所を語る書物であり、共に武道における「心法」のあり方を説いている。特に宗矩は禅と共に、当時の武士の一般教養とされた能楽に傾倒し、今で言う身体パフォーマンスと武術の共通項を見出すなど、現代に通じる武術観をすでに著していたと言えるだろう。そんな新陰流の昇華は各地の為政者にも好まれ、全国諸藩に広く同流が藩公認の流儀として弘められる素地を形成したようだ(ちなみに、『兵法家伝書』と双璧を成す武道書である宮本武蔵玄信の『五輪書』では、「兵法の理は禅語によらずとも著しうる」という意味の記述があり、宗矩ないしは柳生新陰のあり方に批判的なのは興味深い)。また、そこから派生した流儀も少なくなく(仙台藩の柳生心眼流など。ちなみに仙台藩では宗矩の弟子と伝えられる〔異説あり〕狭川新三郎助直を招じて兵法師範とし、狭川新陰流は代々、同藩主の御流儀となっている)、柳生新陰が後の我が国の剣術流儀の中で大きな潮流となる素地を宗矩は形作ったと言えるだろう。
宗矩の嫡男、十兵衛三厳(1607〜1650)もまた、講談、小説などで取り上げられる異色の剣士としてあまりに有名だが、隻眼であったとする説には疑問も投げかけられているようだ。十兵衛は10歳で登城、13歳で四歳年上だった徳川家光の近習(主君の側役)となっているが、二十歳の時に突然、家光の勘気を受けて職を解かれてしまう。その後の空白期間を経て柳生庄に籠もり、武芸三昧や兵法書の執筆に専心している。その後、44歳という若さで突然死するという、物語の題材に据えられやすい多くの謎に包まれた人物である。
彼の代表的著作である『月之抄』は祖父石舟斎と父宗矩の教えを比較検討し、独自の見解と工夫を偲ばせている。そんな十兵衛だが棄却されることもなく、江戸柳生として二世に数えられ、三世を宗矩の三男飛騨守宗冬(1615〜1675)が継いで、徳川時代は一貫して江戸柳生家が兵法師範の任に就いた。彼らの墓は柳生の里のほか、都内にも臨済宗禅寺の広徳寺に墓所があり、現在もその子孫である御当主柳生宗久氏によって手厚く祀られている。
この宗冬と徳川家光の治世、「御前試合に臨んだ」と伝えられるのが、「尾張の麒麟児」と謳われた兵庫助の三男、柳生連也厳包(1625〜1694)である。もっとも、時代が「寛永御前試合」など、武芸講談盛んなりし頃合いの出来事とされることから、どこまでが史実に基づくものかは定かではないとも思われるが、ともかく慶安四年(1651)、家光への上覧のもと、柳生宗冬と相対した柳生厳包は自ら工夫した小太刀の木刀で、木太刀を打ち込む宗冬の右手親指を打ち砕いたと伝えられている(これは仕合ではなく、柳生の勢法〔形〕を上覧していた、とも言われる)。厳包は幼少の頃より父兵庫助の薫陶を受け、その天与の才は五歳年上の兄、茂左衛門利方も自ら推挙して弟である厳包が道統を継ぐことを委ねている。尾張柳生の道統は兵庫助より主君にして門下の徳川義直(尾張藩徳川家初代)へ伝えられ、厳包は第五世に数えられるが、厳包は同い年の尾張藩徳川家第二代となる徳川光友に若くして兵法師範として就く。光友は修行に励み、厳包より正統第六世を印可され「剣豪大名」として後世に伝えられるに至った。以後、尾張柳生では柳生家と尾張徳川家で交互に道統を継いでいくようになるが、徳川光友は厳包と図って初学者のための簡易な修行法である「高揚勢」を考案しており、剣術一筋に生きた厳包が認めただけにその実力は確かなものであったようだ。
尾張柳生初代の柳生兵庫助利厳は上泉の伝えた戦国剣法ともいえる身勢「沈なる身」を残しつつ、時代に即してより闊達に身を処せる「直立たる身」を考案するなど、代々、藩主へ教授する兵法として常に進展変革を試み、伝統の中に革新を加え続けた。その工夫と研鑽は、現在も第二十一世柳生耕一厳信師範へとつながり、後世へと伝え続けられている。
(以下、次回へつづく)
参考:『日本伝承武芸流派読本』(新人物往来社)、『歴史と旅』1983年11月号、『歴史読本』1993年11月号『日本の古武道』(横瀬知行著・日本武道館)、そのほか過去のBABジャパン「月刊秘伝(「秘伝古流武術」含む)」記事