月刊秘伝2024年12月号
■特集 力を0化する!!
武術が到達した“柔の極致”
化勁
序章『化勁とは何か』
第1章『化勁の実戦用法』 宮平保(天行健中国武術館)
第2章『合気と化勁を繋ぐ術技』 高瀬道雄×臼井真琴×有満庄司
第3章『推手で磨く化勁の理』 日本武術太極拳連盟
第4章『化勁を錬る一人稽古』 遠藤靖彦(太我会)
■巻頭グラビア
中達也「形稽古の極意指南!」
佐久間錦二「新始動! 佐川合気実験室」
ベンジャミン ……
嬉野市の忍者村「肥前夢街道」の忍者達が、実際に忍者が活用していた「肥前兵法タイ捨流」を復活させるため、タイ捨流の本流である「兵法タイ捨流剣術・道場八代龍泉館」山本館長の協力の元、佐賀県にて肥前兵法タイ捨流を復活させ、継承していくことになりました。つきましては兵法タイ捨流師範の山本館長を招聘し「肥前兵法タイ捨流」初の稽古会(体験会)を開催します。
「兵法タイ捨流剣術」(タイしゃりゅう)とは、丸目長恵によって創始された兵法。
丸目長恵(蔵人佐)は、肥後(熊本県)南部を領していた相良氏の家臣であり、相良藩の剣術指南役である。相良藩では伊賀・甲賀の忍者を牽制するために「相良忍群」が組織された。
丸目蔵人は上京し新陰流を創始した上泉伊勢守秀綱の弟子となり、将軍足利義輝の前での演武で秀綱の打太刀を勤めている。永禄10年(1567年)秀綱より、上泉伊勢守信綱の名で印可状を受け、その後新陰流を九州一円に広めたあと、独自の工夫によりタイ捨流を開流し、江戸初期には「西の丸目、東の柳生」幕末期には「西のタイ捨、東の直心影」と呼ばれるまでに成長した。
「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つを捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至るということにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、字によって意味を限定してしまうので、仮名で「タイ」と書くことで何れの意味にも通じることができるからである。
技は新陰流を基礎として、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり、すべて袈裟斬りに終結する独特の構えにある。宗家の家紋である九曜の型による円の太刀、飛掛り飛廻って相手を撹乱して打つ技、刀と蹴技・眼潰を組み合わせた技等々、実践剣法を現在に伝えている。
また肥後以外の土地で盛んに行われた、肥前国(佐賀県)。
丸目蔵人自らが訪れ、武雄の木島刑右衛門らに相伝。その後も多久や白石、吉田など佐賀県一体に広まり、総称で「肥前兵法タイ捨流」と呼ばれるようになった。
鍋島藩の第二代藩主・鍋島光茂の御側頭を務めた中野就明は、その刑右衛門の孫弟子にあたり、これを宝永7年(1710年)に「タイ捨流解紐」を著した。また、葉隠を著した山本常朝は中野就明の従弟であり、タイ捨流に入門していたとされる。当時、肥前における剣術の本流は、タイ捨流から新陰流に移っており、就明は「伝流ノ源ヲ失ン事ヲ憂ヒ」と、口伝の極意も含めてわかりやすい解説書としてまとめた。その後、肥前タイ捨流は中級・軽輩の武士層において広まっていたが、幕末になると第十代藩主・鍋島直正が自ら兵法タイ捨流に入門している。
しかし肥前兵法タイ捨流は明治期に一度途絶えてしまい、二度目の相伝は平成の初期頃、今は亡き13世山北竹任宗家が佐賀県の剣道教士七段・谷口國雄氏に伝えるものの、是れも残念ながら途絶えてしまった。13世山北の今際の際の遺言は『兵法タイ捨流をもう一度、西のタイ捨に…』
今回は佐賀県の忍者村「肥前夢街道」が、佐賀県の途絶えてしまった古武術を復活させ、後世へ文化継承することと、佐賀県の忍者(忍術)について歴史的肉付けをするために、兵法タイ捨流の本流である「兵法タイ捨流 八代道場龍泉館」(山本隆博師範)協力の元、三度目の兵法タイ捨流相伝のため、初めての稽古会を開催しました。
今後は月に1回のペースで山本師範から直々に稽古をつけて頂き、肥前兵法タイ捨流を絶やさぬよう、復活と文化継承を行っていきたいと思います。
1970年3月21日生。 熊本県八代市出身。 兵法タイ捨流13世山北竹任宗家より教えを受け、2011年2月26日、免許皆伝一国一人傳授。 2011年5月7日、兵法タイ捨流剣術道場八代龍泉館始動。 熊本県内外での稽古の他、日本各地・海外にて演武やセミナーを行っている。
1981年1月28日生。 熊本県人吉市出身。 兵法タイ捨流13世山北竹任宗家を祖父に持ち、幼少期より兵法タイ捨流を目にして育つ。 現14世木野敬夫宗家の姉。 2013年1月1日 免許皆伝。 現在、八代龍泉館に所属する。